⦅中津川宿5⦆桂小五郎の隠れ家
桂小五郎隠れ家「料亭やけやま」址
中山道中津川宿新町を西に進み書店さんの前、酒屋さんの西側の小径を川の流れに沿って歩いていくと、「桂小五郎隠れ家址」という一枚の札が立っています。
その札には「このあたりに昔「料亭やけやま」があり、長州藩士桂小五郎(後の木戸孝允)が、京都に向う藩主毛利慶親公の行列を待つ間、幕吏の目をのがれて中津川の平田門人市岡殷政と間秀矩の好意で、秘に「料亭やけやま」に隠れ待機した。やがて中津川会議三日間の結果、桂らの主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した。明治変革の秘史を物語る場所である。」と書かれています。
長州藩中津川会議
長州藩世子毛利定弘の命を受け、文久2(1862)年6月20日、京都から長州藩士桂小五郎(後の木戸孝允)が手付伊藤俊輔(後の伊藤博文)とともに中山道中津川宿にやってきました。
長州藩は、幕府の開国を支持していましたが、朝廷が支持する破約攘夷(外国と結んだ不平等条約を破棄して、今まで通り外国とは通商しないで鎖国をする)へと藩是を変えさせるに、江戸から上京してくる長州藩主毛利慶親一行を待っていたのです。
藩主毛利慶親が中津川宿に到着後、中津川宿本陣の奥の上段の間で会議が行われました。桂小五郎はじめ、老臣浦靱負、家老福原越後ら長州藩の重臣たちが3日間かけて疑義した結果、慶親は朝廷方へ味方しようと心を決め京都に向かったのです。
この場を設定したのは、平田国学没後門人で中津川宿の宿場役人をしていた、市岡殷政と間秀矩でした。
中津川宿でこのような会議が行われたことは、当地が平田国学の没後門人が支配をしていた宿場だということと無縁ではありません。
長州藩中津川会議は、幕末政治史の中では長州藩のその後の路線を決定づけた会議であり、中津川の幕末という舞台があってこそ可能であったといえるでしょう。
中津川会議 島崎藤村「夜明け前」の世界
「一人の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いできた。江戸桜田邸にある長州の学塾有備館の用掛をしていた男ざかりの侍。」・・・桂小五郎
「その目的は、京都の屋敷にある長州世子の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、航海遠略の到底実行せらるべくもないことを進言するためであった。それよりは従来の方針を一変し、大いに破約攘夷を唱うべきことを藩主に説き勧めるためであった。」・・・会議の目的
長州藩主 毛利慶親 中津川宿本陣泊の古文書「 御休泊留記」
中津川宿本陣 御休泊留記(個人蔵)
「御休泊留記」は本陣で休泊した人のことを書き留めたもので、とても貴重な古文書です。
この資料によると、文久2(1862)年6月20日に長州藩主毛利慶親が中津川宿本陣入りし、24日に帰洛の途に就いたことがわかります。
この4日の間に、長州藩主毛利慶親は京都よりきた同藩老臣浦靱負や桂小五郎らと中津川会議を行い、藩是を公武合体から尊王攘夷に変換したと思われます。
毛利慶親(敬親)とは
毛利博物館所蔵品 1867年
(ウィキペディア より)
毛利慶親(1819年から1871年)
長州藩13代藩主。後に名を敬親。諡は忠正公。
文久1(1861)年佐幕的開国策の航海遠略策を採用して自らも運動したものの、翌年文久2(1862)年には、薩摩藩の島津久光の率兵上京や幕政改革によって藩論を転換させざるをえなくなりました。
そこで長州藩は、慶親臨席のもと桂子小五郎や重臣らが会議を開き、尊王攘夷の藩論と攘夷実行を決定しました。
慶親は、「そうせい候」とも呼ばれています。それは、進言される家臣からの意見を取り入れて了承の意で「そうせい」と言うことが多く、自らの意見を前面に押し出すことは少なかったと言われています。
こうした慶親の泰然自若なあり方は、高杉晋作、吉田松陰、大村益次郎、桂小五郎など激動の幕末期において次の明治へと繋がる人材を世に送り出す懐の大きさを有していた人物とも言われています。
長州藩士らの中津川来訪を証する古文書「玉石混同」
間秀矩の玉石混同(個人蔵)
幕末に長州藩が公武合体から尊王攘夷へと変えた会議として知られる中津川会議。
その際に、同藩士らが中津川宿に滞在したことを示す古文書が、旧家山半間家に所蔵されています。
それは、「玉石混同」といい、間秀矩の許を訪れた同憂の士の人名を記録した古文書です。
文久2年6月20日 長藩
福原蔵人
乃美右衛門
志道聞多 (後の井上馨)
文久2年6月21日 長藩
世良孫槌
中津川宿や飯田の平田門人は、のち京都で活動を長州藩の協力を得て行うことになりますが、両者のかかわりがここにも示されています。
桂小五郎らの中津川来訪を証する古文書
桂小五郎らの中津川来訪を証する古文書(個人蔵)
桂小五郎が中津川宿に滞在したことを示す古文書も、旧家山半間家から発見されています。
一番右の「はゝ木ゝハ」で始まる古文書は、源氏物語の一節をひいて「ありえないことだ」と桂小五郎の滞在への驚きを強調する文書が二行書かれています。
この古文書は5人の長州藩士が間秀矩宅を訪れ、その名を以前から親交のあった世良孫槌に聞いて書き留めたものと考えられています。
桂小五郎のほかに、志道聞多 (後の井上馨)、乃美右衛門、児島少輔、福原蔵人の名が記録されています。
志道聞多とは後の井上馨のことで、井上はこのとき藩主の小姓役であり藩主に随行していました。
桂小五郎(木戸孝允)とは
幕末・明治・大正 回顧八十年史
東洋文化協會1933年・1934年
桂小五郎(1833年から1877年)
後の木戸孝允。号は松菊・木圭他。
吉田松陰に兄事し、長州藩士として幕末に活躍、西郷・大久保らとならぶ明治維新の三傑の一人。
長門国(山口県)に藩医和田家に生まれ、8歳で藩士桂家の養子となる。
藩校明倫館で吉田松陰に兵学を学び、江戸へ遊学後は斎藤弥九郎の剣術道場に入門、塾頭も務めた。
幕末の動乱期には長州を代表する志士の一人として江戸、京都と国事に奔走。藩政改革をすすめ、慶応2(1866)年には藩の代表として薩長同盟を締結した。
この頃から藩命により木戸姓を用いるようになり、維新後は「木戸孝允」と改名。
新政府の参与、参議を歴任し、版籍奉還や廃藩置県などを推進。
明治4(1871)年の岩倉使節団では全権副使を務めた。
明治10(1877)年5月、西南戦争を案じながら京都で病没。享年45歳。
中津川宿に文久2(1862)年訪れており、中津川会議という長州藩の今後に関わる重要な話し合いをしていました。
桂小五郎(木戸孝充)」晩年の筆、画及び讃
木戸孝允の手によるものと言われる書画(個人蔵)
書画右下に号・松菊があることから木戸の手によるものではないかと言われています。
桂小五郎(木戸孝允)の中津川来訪の記録
この松菊木戸公伝によると、
文久2(1862)年6月20日に長州藩世子の内命を受けて中津川に行き、藩主毛利慶親に京阪の形勢激変を報告し、その夜老臣浦靱負ら長州藩の重臣たちと疑義すること3日間に及ぶ。
文久2(1862)年6月23日帰洛の途につき藩主毛利慶親に先だち28日に京都に入る。
伊藤俊輔(博文)とは
幕末・明治・大正 回顧八十年史
東洋文化協會1933年・1934年
伊藤俊輔(1841年から1909年)
後の伊藤博文。幼名は利助、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。号は春畝。
幕末から明治時代に活躍した政治家で、明治時代に初代を含め4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めたことで知られる。
周防(山口県)で農家に生まれるも、父が長州藩の伊藤家の養子となり、下級武士の身分となる。
性格は開けっぴろげで朗らかであり、状況によって政治的立場を変えるという柔軟性を持っていたといわれている。
吉田松陰の松下村塾へ16歳の時に入門。松陰から推薦される形で、長州藩の京都派遣に随行、のち来原良蔵の紹介で桂小五郎の手付となる。
中津川宿に文久2(1862)年、桂小五郎の手付として訪れています。
伊藤博文 中津川来訪の記録
伊藤博文公年譜によると、
文久2(1862)年6月16日上京途中の藩主毛利慶親に謁するために桂小五郎に従い京都を出発する。
文久2(1862)年6月20日木曽路中津川に抵る。桂小五郎が藩主毛利慶親に謁し、京阪の形勢激変を上申す。
文久2(1862)年6月28日桂小五郎とともに京都に帰着する。
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更新日:2021年12月26日