⦅中津川宿20⦆小説「夜明け前」

更新日:2021年04月01日

新茶屋からの夕陽

 

新茶屋からの夕日(個人所有)

 

『夜明け前』 島崎藤村

木曽路は山の中である

「あの山の向こうが中津川だよ。美濃は好い國だねえ」

小説「夜明け前」と中津川

「木曽路はすべて山の中である」という書出しで始まる小説「夜明け前」は島崎藤村の大作で、主な舞台は中山道馬籠宿。黒船来航に筆を起こし、明治19年主人公青山半蔵56歳で狂死をもって幕を下ろす歴史小説です。

藤村は数え年10歳で郷里馬籠を離れ、三兄友弥とともに東京へ遊学に出かけます。72年間の生涯のうち故郷の馬籠に帰省したのは、わずか9回にしか過ぎません。

そのうちの7回目の帰省(昭和3(1928)年57歳)の折、隣家の年寄役大黒屋第10代当主の大脇兵右衛門信興の自筆日記「年内諸事日記帳」(通称大黒屋日記)の存在を知り、この資料を一番のよりどころとして昭和4(1929)年4月1日、小説『夜明け前』序の章を月刊中央公論に発表しました(58歳)。

以後7年間にわたって年4回(1・4・7・10月)の割で章毎、計28回連載していきます。

『夜明け前』では《中津川》の三文字は少なくとも145回登場し、第一部第二章一では「あの山の向うが中津川だよ。美濃は好い國だねえ」と記しています。

「夜明け前」の主人公 青山半蔵のモデル

島崎正樹(重寛)短冊(個人蔵)

島崎正樹(重寛)短冊(個人蔵)

この主人公のモデルとなった人物は藤村の父、島崎重寛(しげひろ)(明治5年正樹と改名)です。

中津川宿本陣の市岡家や問屋・酒造業を営んでいた やまはん間家などとの親交が深く、島崎正樹(重寛)の和歌、長歌・反歌、漢詩や書簡等が数多く保存されています。

「夜明け前」執筆のよりどころ

東行日記

東行日記(個人蔵)

藤村が「夜明け前を執筆するにあたって、よりどころの一つに間秀矩の「東行日記」があります。

実際に借用した証として、その際の礼状が、やまはん間家で発見されています。

中津川宿の人々と小説「夜明け前」の登場人物

中山道歴史資料館の展示室入口に、日本画の大家 前田青邨画伯が「郷里の先覚」として描いた2枚の肖像画があります。

幕末から明治維新にかけて、町人でありながら、中津川の夜明け・日本の夜明け前に努力した中津川宿の人物です。その2人とは市岡殷政と間秀矩です。

この2人は島崎藤村の小説『夜明け前』に登場しています。

このほかにも肥田通光や馬島靖庵など中津川宿の人々が登場しています。

市岡殷政(いちおか しげまさ)

「夜明け前」の浅見景蔵のモデル。信濃国下伊那郡座光寺村の名主北原林蔵信維(のぶつな)の7男に生れ、後に中津川宿本陣の市岡家の養子となりました。

文久2(1862)年9月、間秀矩の紹介で平田学に入門します。島崎正樹(重寛)とともに、この3人は馬島靖庵を師として国学を究めつつ密接な交流を続けました。慶応4(1868)年1月の東山道総督岩倉の通行にあたり、嚮導(きょうどう)役を命じられて間秀矩等の国学の同志とともに上諏訪まで従軍します。

中津川宿本陣のHP

間秀矩(はざま ひでのり)

「夜明け前」の蜂谷香蔵(こうぞう)のモデル、やまはん間家第五代当主。代々酒造業でしたが後に問屋や年寄役となります。

安政6(1859)年10月馬島靖庵の紹介で平田門に入ってからは、中津川宿の知人を多く平田門に紹介します。馬籠宿の島崎正樹(重寛)も彼の紹介で入門しました。秀矩はしばしば京都に出て、天下の志士と広く交わりながら国事に奔走します。明治3(1871)年には神祇権少史に任じられました。

肥田通光(ひだ みちてる)

「夜明け前」の小野三郎兵衛のモデル。中津川村の庄屋・旅籠「田丸屋」の屋号で呼ばれました。10代目の肥田九郎兵衛通光は幼年より俳諧を好み、馬風(うまかぜ)を号しました。

文久4(1864)年5月から3か月間上洛して国事に奔走し、岩倉具視の知遇を受けます。戊辰戦争では東山道軍の木曽路通行を、同志とともに嚮導(きょうどう)しました。慶応4(1868)年5月下旬に中津川に押しかけた木曽谷百姓一揆(1150余名)では、庄屋の肥田通光が尾張表まで出向いて嘆願書を提出し、その収拾のために尽力します。

中津川村庄屋のHP

馬島靖庵(まじま せいあん)

「夜明け前」の宮川寛齋のモデル。名は殻生(としなり)。尾張国津島で眼科医の修業をし、のち京都に出て漢学・医学を学び、江戸へ出てさらに漢学を探究しました。

天保7(1836)年中津川宿の間秀矩の姉菊の女婿(じょせい)となりましたが、かつての医術の師に私淑して生涯馬島姓を名乗りました。中津川で開業し寺小屋も開いて子弟を薫陶(くんとう)しました。弘化3(1846)年36歳の時、再び上京して内外科を修めます。国学にも造詣が深く、靖庵の教導によって義弟間秀矩をはじめ中津川の多くの者たちが平田門に入りました。のちに隠居して余生の道を伊那の伴野村(松尾多勢子の居村)に求めますが、やがてそこを離れ三河国稲橋の勤王家古橋家に3年間寄寓して国学の教授にあたり、慶応3(1867)年伊勢に赴き林崎文庫(皇學館大学の前身)で教鞭をとり、翌年没しました。

中津川市中山道歴史資料館

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