⦅中津川宿10⦆中津川村庄屋屋敷
中津川村庄屋屋敷(曽我家)
中山道歴史資料館(脇本陣跡)の道を隔てた西隣、本陣跡斜め向かいにあるのが中津川村庄屋「肥田家」の屋敷です。
肥田家は中津川に残る記録によりますと、享保3(1718)年から明治5(1873)年まで、江戸時代の半分、庄屋役を勤めていたとあります。
屋号を「田丸屋」といい、参勤交代など大通行がある場合に、比較的身分の高い人が泊まる旅籠でもありました。
明治中期から曽我家が入居し、医院として使用されました。
中津川市指定有形文化財 「曽我家住宅」
屋根に「うだつ」があがっているこの建物は、建設年代は不明ですが、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると想定されています。
規模は大きく、西北の中山道に面する部分は、建物のみで8間半、敷地は10間半に達し、一方、奥行きは、建物のみで12間半あります。
屋敷内のガラスの向こうには江戸時代からの庭園も残されており、その当時の面影をしのばせるとても貴重な有形文化財です。
屋敷内の風景
屋敷内の「上段の間」はやや数奇屋がかっており、とくに細工がよく、床柱には面皮の桧、落掛けには黒柿が使われています。欄間の透彫りはきわめて雄大です。
またこの「上段の間」「次の間」にはガス灯の器具の一部が遺されております。
また庭に面する建具のガラスにはひずみや気泡が入っており、古い製法のものが使われていてとてもノスタルジックです。
小堀遠州好み庭
屋敷の裏には、肥田家の文化の高さを物語るかのような小堀遠州好みの庭があります。
300年余りの中津川の歴史と人間劇場を知る庭石と古木は今も静かにその形をとどめています。
恵那山を登ったウエストン
明治26(1893)年、日本アルプスの紹介者ウエストンが、恵那山への登山に来たとき、この「田丸屋」に泊まりました。
その時、このガラス越しの庭その背景にある恵那山の景色を眺め、その素晴らしさを褒めたたえています。
肥田家10代目 肥田通光(1814~1880)
10代目の肥田九郎兵衛通光は『夜明け前』の小野三郎兵衛のモデルです。
幼年より俳諧を好み、馬風を号しました。
文久4(1864)年5月から3か月間上洛して国事に奔走し、岩倉具視の知遇を受けます。
戊辰戦争では東山道軍の木曽路通行を、同志とともに嚮導しました。
慶応4(1868)年5月下旬に中津川に押しかけた木曽谷百姓一揆(1150余名)では、庄屋の肥田通光が尾張表まで出向いて嘆願書を提出し、その収拾のために尽力します。
その様子は『夜明け前』(第二部第五章)でも詳しく取り上げられています。
旭ヶ丘公園 馬風句碑
馬風句碑
旭ヶ丘公園 馬風句碑立て札
「菊折て すててまた折る 山路かな」馬風は美濃以哉派中津川の四世宗匠の俳名で、名を肥田九郎兵衛通光といい、中津川宿最後の庄屋を勤めた。
明治13(1880)年67歳で死去。その3年祭に当る明治15(1882)年5月29日に馬風の三男 菅井守之助、菅井蠖ら親族門人一同によって、この句碑が建てられました。
中津川市中山道歴史資料館
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更新日:2021年04月01日