【資料紹介87】代官を兼ねた大名友政

更新日:2023年07月15日

代官を兼ねた大名友政

    関ヶ原の戦い前、18年振りに苗木へ還った遠山友政は,1万521石の大名に任じられ、同時に家康直轄領である裏木曽三ヶ村(加子母・付知・川上)の代官を兼ねることになりました。このことは、遠山家にとっても友政にとっても大きなことでした。
    江戸時代の初めは、江戸城・駿府城・名古屋城などが築城されたため、各城下町の形成に莫大な木材が必要となり、その多くが木曽・裏木曽から伐り出されました。木材関係の代官は、親しい山村・千村と遠山の3名で美濃奉行大久保長安(ながやす)の差配の下、順調に伐り出しました。
    写真の文書は、慶長12(1607)年閏(うるう)4月に駿府城築城のため伐り置いた松木の挽き物を、残らず伊勢の水谷九左衛門方まで油断なく届けよと、駿府 家康の老中村越・成瀬・安藤・本多の連名で友政に指示したもので、大名だけでは味わうことがない忙しさが感じられます。代官の収入もそれだけ多かったのでしょう。
    ところが、翌13年に大奉行大久保長安が病死すると、逆風厳しく長安の子7名は切腹、近親者も断罪されます。山村も当主良安(たかやす)(友政妹の子=甥で友政の娘の夫)は切腹となりました。
    友政は翌14年、大坂冬の陣では桑名の城番、15年の夏の陣では松平忠明(ただあきら)の軍で戦いますが、苗木へ帰ると報償どころか無惨にも裏木曽三ヶ村の代官職を取り上げられ、1万石かつかつの小大名生活が始まりました。4年後、63歳で逝去した友政の心境は如何だったでしょうか。

                                                                  友政にあてた本田正純らの連署書状

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