【資料紹介89】江戸中期 大名遠山家の存亡の危機

更新日:2024年01月08日

江戸中期 大名遠山家存亡の危機

    6代苗木藩主遠山友将(ともまさ)は7歳で家督を継ぎましたが、虚弱で10年後に病死しました. 今なら高校3年生の歳です。目立つ職績はありませんでしたが、書画を残しています。
    当時は、先代の生前に相続者が幕府の承認を得ていないと家名が断絶してしまいました。友将にはまだ子がいなかったため、叔父左兵衞[友央(ともなか]27歳が友将より10歳年上でありながらその養子(7代)と認められ、友将はその翌日病死しました。
    その10年前、左兵衛の兄5代藩主友由が28歳で病死した時、嫡男6代友将はまだ7歳で、江戸城の勤めは困難と考えられました。江戸城出入りは旗本(将軍の直臣)であれば認められるため、叔父友央が旗本500石となり、江戸城内では少年大名(甥・友将)の後見人を兼ね、大名代行も出来ました。
    友将の若死には計算外でしたが、旗本の友央を呼び戻すこととなり、大名代行としての10年の経験は、苗木藩にとって叶ったりの好条件となりました。
    ところが、幕府からは後継認可と引き替えに旗本500石の領地を上知(じょうち)(差し出)せよとの指示を受けました。
 
遠山左兵衛へ
遠山豊前守家相続仰せつけられ候に付き、知行五百石差
し上げらるべく候。尤も勘定奉行談じらるべく候。

    一般に旗本は代官に収納させ、蔵米を受け取る形でしたが、苗木藩では内々に蔵米を渡していたのではないでしょうか。500石分を上知せよとの指示に、辺地の吉田・大野・寺前・小野の4小村を充てましたが、1万521石から1万21石の極少大名となりました。さらに1万石以上が大名ですから、22石失えば大名の資格を失うという、瀬戸際に立たされることになりました
    若き日のこうした苦難を糧に治政に配慮を尽くした7代藩主遠山友央は、遠山家中興の君主と評価することが出来ます。

             旗本知行五百石の差上げを命じた書状(当館蔵)

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