【資料紹介】信玄書状

更新日:2021年06月06日

【資料紹介】信玄書状

◆展示品紹介

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「武田信玄書状」 年不詳 7月15日付け

堅 紙 27.4cm×35.6cm

日下の字自著で花押あり

(原文を一部読み下しに訳した。)

苗木城を築いた人物としては、遠山左近直兼(なおかど/苗木勘太郎)と遠山一雲入道昌利の両説があり、 互いの関係を明らかにする上で今後の研究の成果が待たれるところです。 その内遠山左近直兼(苗木勘太郎)の実在を証する資料として、当館では武田信玄の書状などを展示していますが、 この書状の内容や受取人である遠山左近助について概説します。 年号はありませんが、武田晴信が信玄と名乗り始める永禄2年(1559)から飯富三ノ兵(飯富三郎兵衛)が山県の姓に変えた永禄8年(1565)の間と推定されます。 この書状は飛騨の益田へ遠山軍勢の派遣を促すもので、非常に高圧的な督促状です。 ちなみに永禄7年(1564)に武田軍が飛騨へ攻め込んでいることが、他の文献で判明しています。 実際に遠山家が兵を繰り出したかについては不明ですが、元亀3年(1572)直廉は飛騨の三木氏と威徳寺(現在益田郡下呂町)で合戦し、 その時の矢傷が元で死去しています。 遠山左近直廉は織田方に立って永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで活躍をし、また武田方からはこの書状にあるように身内(家臣)扱いを受けていたことは、 一方ではこの時期の遠山家は、武田と織田の勢力の間にあって、どちらにも「よしみ」を通じて組することが出来た武将であったとの見方も出来ます。 織田信長の妹を妻にすることができたり、また生まれた娘が武田勝頼に嫁いで信勝を生んでいる事実は、 直廉が東濃地方で力をつけていた有力な武将であったからこそ、織田、武田両方から婚姻関係を結ぶことが出来たと思われます。

「恵那山」2002年4月号 2012年2月29日掲載(最終更新 : 2017年6月 2日) 中津川市苗木遠山史料館 〒508-0101 岐阜県中津川市苗木2897番地の2

電話 0573-66-8181 ファクス 0573-66-9290

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