【資料紹介】徳川秀忠から遠山友政への書状
来年の大河ドラマ「どうする家康」は、江戸幕府を築いた徳川家康が主人公です。
苗木遠山家は徳川家とゆかりが深く、史料館には徳川家と遠山家のつながりを示す貴重な史料を展示しています。
その中の「秀忠からの書状」を改めてご紹介いたします。
【資料紹介】徳川秀忠から遠山友政への書状
2代将軍となる徳川秀忠の、遠山久兵衛(きゅうべい)宛ての書状が、苗木遠山史料館に2通あります。
1通は下の写真の書状です。

勝栗一箱 到来書入候 猶大久保相模守 可申候也
九月十六日 秀忠花押
遠山久兵衛殿 「勝栗をいただいた。大久保相模守(さがみのかみ)が扱った。」という受取状が、徳川秀忠から遠山久兵衛へ出されています。
苗木遠山史料館には別に、「帷子(かたびら)」をいただいた受取状もあります。

帷子三、到来 悃志之至 喜入候尚大久保 相模守可申候也
七月廿一日 秀忠花押
遠山久兵衛殿 遠山久兵衛は云うまでもなく、苗木藩初代大名遠山友政(1556~1619)です。(久兵衛は通称)
秀忠は2代将軍徳川秀忠(1579~1632)、大久保相模守は大久保忠隣(ただちか)(1553~1628)です。大久保忠隣は早くは徳川家康の忠臣、のち秀忠の家老、さらには老中となります。
勝栗は栗を干して殻と渋皮を剥(は)いだもの。「勝ち」に通じる縁起物で、戦時に贈られることがあったようです。
書状はどちらも年号が書かれていませんが、「九月十六日」はことによると、1600(慶長5)年の9月かもしれません。
関ヶ原合戦の直前、家康は東海道を西進し、秀忠は東山道を南下します。ただ途中、大久保相模守等の助言で上田城の真田昌幸父子を攻め、それに難渋し、進軍が大きく遅れました。真田攻めを諦め再進軍、9月16日に妻籠(つまご)まで来ました。
遠山友政は、家康の命で山村・千村氏と共に、木曽・東濃へいち早く進攻して、秀忠軍の到着を待ちました。9月16日に勝栗が届けられたのは、妻籠であった可能性があるかも知れません。もっとも、秀忠は妻籠で、前日の関ヶ原合戦の勝利の報を聞き、真っ青になっていたはずです。
「寛永諸家系図伝」には「(友政は)この時米・大豆・御馬の沓(くつ)など旅料を(秀忠に)献じ、同国大井に至りて御馬一疋(ひき)を献ず」とあり、勝栗とは記されていませんが、あり得るかも知れません。
遠山友政宛書状は古く、花押は秀忠なので注目しました。(ち) 2018年1月16日掲載(最終更新 : 2018年1月16日) 中津川市苗木遠山史料館 〒508-0101 岐阜県中津川市苗木2897番地の2
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更新日:2022年09月14日