【資料紹介72】「いだてん」肥後との旧縁
【資料紹介】「いだてん」肥後との旧縁

写真は肥後2兄弟預け書
「いだてん」肥後との旧縁
苗木藩士の子 可児徳【いさお】は東京高等師範学校(筑波大学)助教授で徒歩部部長(陸上部監督)、徒歩部学生「いだてん」金栗四三【しそう】(熊本)と師弟の関係にあり、第一回箱根駅伝の優勝監督でした。
金栗は肥後熊本出身ですが、苗木は江戸時代の初めから肥後人との縁がありました。
熊本52万石は加藤清正の死(1611年)後、お家騒動で家中対立。将軍秀忠が裁き、一方が斬刑・流刑になり、26名が預かりになります。
初代苗木藩主遠山友政が預かったのは近藤(のち伊地知)兄弟。父が清正の家臣だった2少年は、苗木城下で小栗家の世話になり、生涯を過ごします。
遠山家の菩提寺であった雲林寺の墓地で2兄弟の墓碑を発見しました。 兄近藤(伊地知)伝六の墓碑には、 延宝6(1678)年7月21日没 (注)76歳 墓碑裏に 生地九州肥後 小栗法印立之 弟近藤(伊地知)新之丞は過去帳に、 寛文8(1668)年7月19日 肥後殿預【あずかり】人 (注)64歳 とあり、共に高齢で苗木に骨を埋めました。
さくら公園の下、送電塔の下段墓地のさらに下の原野に小さな古い墓が3基だけありました。
没年は正保3(1646)年・寛文4(1664)年・寛文11(1671)年とあり、極めて古く、最後の一基だけ正岳院過去帳に「肥後之生縁 池辺藤兵衛」と記載がありました。
三基の他に墓はなく没年が伊地知2兄弟に近い(少し早い)ことから、3人は肥後から付いてきた奉公人ではないかと考えられます。 いだてん金森四三は、肥後の池辺(池部)家に養子に入り、オリンピック資金などの援助を受けます。
苗木の墓の池辺と縁があればと夢想もします。 2019年9月21日掲載(最終更新 : 2019年11月 4日) 中津川市苗木遠山史料館 〒508-0101 岐阜県中津川市苗木2897番地の2
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更新日:2021年05月25日