⦅資料紹介12⦆伝統芸術手摺木版 「英泉筆 廣重筆 大錦木曽街道六十九次」企画展示

更新日:2022年04月22日

木曽街道六十九次 表紙
  • 当館蔵

令和4年上期(3月29日~10月2日)の企画展は、(けい)(さい)(えい)(せん)・歌川(ひろ)(しげ)の二人の筆による中山道の六十九の各宿場と、街道の起点となった日本橋ならびに中津川の変わり図(晴れの景)を加えた全70景71図の多色刷浮世絵版画(錦絵)の復刻版(彫師 中川忠七  摺師 小野寺修二  昭和52年日本版画研究所刊)を一挙紹介しています。

中山道は慶長7(1602)年、幕府が東海道の裏街道として宿駅伝馬の制をつくり、六十九の宿駅に本陣、問屋等を指定しました。江戸時代を通じてこの道も諸大名の参勤交代や幕府の役人・公家・姫君・庶民の旅行など、多様な人々や物が往来する幹線として利用されてきました。

中山道は木曽路を抜けるため、別名「木曽街道」とも呼ばれ、他の海道と同様に幕府の文書や諸文献に、「木曽海道」とも書かれました。

企画展HP→令和4年企画展  

 

復刻版 木曽海道六拾九次之内 馬籠宿

復刻版 木曽海道六拾九次之内 落合宿

英泉筆 廣重筆 大錦木曽街道六十九次 全70景71図

「渓斎英泉・歌川廣重の『木曽街(海)道六拾九次』」

英泉筆 廣重筆 木曽街(海)道六拾九次について

江戸幕末の出版界に名を成した保永堂竹之内孫八は、木曽街道六十九次(全七十図)の出版を企画し、これを刊行しはじめたのは天保6(1835)年のことで、その板下絵をかいたのは渓斎英泉でした。

1枚目として発売されたのは中山道の起点である日本橋の風景画で、「第壹 木曾街道續ノ壹 日本橋 雪之曙 渓泉画」とあり、版元の保永堂の朱印が二種類押されています。渓斎英泉の図は第11図の本庄宿まで続きます。

第12図の新町宿(現在の高崎市)になると歌川廣重の作品になり、「木曽海道六拾九次之内新町」と表記し、そのあと渓斎英泉と歌川廣重の両者が入りまじり、また版元も保永堂と錦樹堂(伊勢屋利兵衛)の共版となります。

このような形式で第44図馬籠宿までの間に、歌川廣重の画作が増加の傾向をたどり、第20図沓掛宿(現在の軽井沢)からは版元が錦樹堂一軒の手に移り、第45図落合宿から第70図大津宿までの間には、渓斎英泉は第53図鵜沼宿と第55図河渡宿の二図を担当したに過ぎません。

合計71枚の内訳は、歌川廣重作が47枚、渓斎英泉が24枚です。両者が別人格であるので当然のことですが、両者の道中画における構図や配色、それぞれの宿等における土地の人々や旅人等の描き方の違い等々を見比べてみるのも興味深いものがあります。

渓斎英泉と歌川廣重

渓斎英泉(1790-1848)

〈別称・通称〉 池田 英泉 /  一筆庵 可候 / 菊川 英泉 /  国春楼

江戸時代末期の浮世絵師。寛政3(1791)年、江戸の下級武士の家に生まれました。名は義信、一時期茂義とも称し、俗称を善次郎といいました。

12歳から奥絵師(幕府に仕えた御用絵師のうち、将軍にお目見えすることができる四家)の狩野(かのう)(みち)(のぶ)の弟子といわれた狩野(はっ)(けい)(さい)に画技を学びました。二十歳を過ぎた頃、浮世絵師の菊川英山に師事し本格的に絵筆を執ることになります。英泉という名はこの師菊川英山から授けられた画号です。

彼は才気に恵まれた人で、文化5(1808)年ごろから画家として名を出し、錦絵・草双紙挿絵など幅広い活躍をしています。画号は渓斎のほかに(こく)春楼(しゅんろう)などを用い、春画には(いん)(さい)白水(はくすい)、狂言作者としては千代田才市、戯作(げさく)者としては一筆庵()(こう)、随筆には无名(むめい)(おう)などを号しました。

浮世絵師としての英泉の絵の特徴は、6頭身で胴長、そして猫背気味という屈曲した情念のこもった女性を描き、下唇が厚く、下あごが出たような顔にもその特徴が表れているようです。英泉の錦絵作品は現在1,734枚確認されており、そのうち1,265枚(約73%)が美人画ということです。

天保5(1834)年、版元の保永堂竹之内は五街道の一つである中山道の69宿を描く「木曽街道六十九次」の一大連作の出版を企画し、その板下絵をかいたのは英泉でした。翌年、中山道の起点である日本橋が「木曾街道讀ノ壹 日本橋雪之曙」と題して描かれて最初に発売されました。以降第11図の本庄(現在の埼玉県本庄市)まで彼の作品が続刊されます。第12図の新町(現在の群馬県高崎市)からは歌川廣重が参加しはじめ、両者の作品が入りまじっていき、京都に近づくにつれて歌川廣重の絵が多くなっていきます。完結したのは定かではありませんが、天保13(1842)年ごろと推定されています。

結局、全71枚中、歌川廣重が47枚(66%)、渓斎英泉が24枚(34%)でした。なぜ途中から歌川廣重が登場したのか、また、なぜ版元が保永堂から錦樹堂に、その後、錦橋堂へと移ったのか等々、不明な点が多いのもこの「木曽街道六拾九次」の特徴です。

渓斎英泉は嘉永元(1848)年7月22日、59歳の生涯を終えますが、彼の死後、初版24点それぞれに刻記してあった英泉の署名(落款(らっかん))は、その後の出版ではなぜかすべて削除され、無款とされてしまいます。

歌川廣重 初代(1797-1858)

〈別称・通称〉 安藤 広重 /  一遊斎 / 一幽斎 / 一立斎 / 立斎

江戸時代末期の浮世絵師。寛政9(1797)年、江戸八代(やよ)()河岸(かし)の定火消の家に生まれ、本名は安藤重右衛門。13歳の時に父親が退隠し、その職の火消同心を継ぎました。

15歳のころ浮世絵に志し、初代歌川豊國に入門を望みましたが、すでに門弟がたくさんいたため断られてしまいます。そこで歌川豊廣に入門し、16歳のころ師匠と自分自身の名から一文字ずつとって、歌川廣重の名を与えられます。

文政元(1818)年〔22歳〕、一遊斎の号を用いてデビューしました。27歳で火消同心を退隠しその職を養祖父方の嫡子仲次郎に譲ります。しかし、仲次郎はまだ8歳でしたので、引き続き火消同心職の代番を勤めます。

始めは役者絵から出発し、やがて武者絵や美人画に筆を染めますが、師匠の歌川豊廣歿後(文政12(1839)年〔廣重33歳〕)は、風景画を主に制作するようになります。

37歳で「東海道五拾三次」を保永堂から刊行し、翌年完結しました。42歳になったころから「木曽海道六拾九次」の廣重の分46枚に着手します。渓斎英泉がかきはじめた六十九次ですが、なぜ途中から歌川廣重が参加するようになったのか、この経緯は解明されていません。

彼の作品は海外でその大胆な構図や鮮やかな青色(藍色)の美しさで評価が高く、欧米では「ジャパンブルー」「ヒロシゲブルー」ともよばれており、19世紀後半のフランスの画家たちに多大な影響を与えたとされています。

60歳で錦絵「名所江戸百景」を118枚で完結させ、その後も大作を次々と発表していきますが、安政5(1858)年9月6日病没しました。当時の日本ではコレラが大流行しており、これにかかったと伝えられています。享年62。

展示終了 令和4年10月2日(日曜日)