地域の由来・歴史

更新日:2021年03月01日

地域の由来

中津地区は、中津川(一部阿木)、手賀野、駒場からなり、古代には奈良時代の東山道が通り、中世には織田、武田の勢力争いのもと、阿照城、督ノ城などの山城、近世には中山道の宿場、中津川宿として栄えた地域です。中津地区を中心に、現在の中津川市をたどると、次のようになります。

 

  • 明治12年「郡区町村編成法」の施行により、恵那郡役所が大井村(現在の恵那市)に設置。当時63ヶ村で、中津川村、手賀野村、駒場村が含まれていた。その後、明治14年1月、郡役所は中津川村に移転する。
  • 明治22年7月1日中津川町となる。しかし、当時はまだ合併が進まず、中津川町、駒場村、手賀野村組合会という行政組織であった。
  • 明治30年4月1日中津川町、手賀野村及び駒場村が合併し、中津町が誕生。合併に際して、合併不成立の場合は、駒場村と手賀野村の合併により「駒賀野村」の発足の案があった。区域の中心中津川町の名前をあえて中津町にしたのは、合併2村への配慮があったから、とのことである。当時の人口は、中津川町4,020人、駒場村631人、手賀野村541人であった。
  • 合併に伴い、「区長設置規程」を施行、中津川10区、駒場3区、手賀野2区の併せて15区に分けられた。
  • 明治43年12月、「行政区及び区長設置規程」の準則に基づく郡の指導により、翌年中津町の行政区を22区に編成した。(分区に細分化されたが、現在の区の区域の基になっている。)
  • 大正10年4月1日「郡制廃止法」の施行され、郡制は廃止となり、国の末端機関として存続していた郡役所も大正15年7月廃止された。
  • 昭和26年4月1日中津町と苗木町を廃止中津川町を置く。その後、昭和27年4月1日に市制施行、昭和29年7月10日恵那郡坂本村、昭和31年9月30日同郡落合村、昭和32年11月1日同郡阿木村を編入、昭和33年10月15日長野県西筑摩郡神坂村のうち峠、馬籠および荒町の区域を同郡山口村に編入したうえで、神坂村(残部)を編入、昭和43年4月1日境界変更して、苗木字向並松の区域を恵那郡福岡町に編入、さらに平成17年2月13日岐阜県恵那郡坂下町、川上村、加子母村、付知町、福岡町及び蛭川村並びに長野県木曽郡山口村を編入、現在の中津川市の区域となる。面積は676.38km²。

地域の歴史(年表)

年表

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