蛭川地域の由来・歴史

更新日:2021年11月05日

由来

蛭川は、北・東・西を山地に囲まれた小さな盆地にある。なぜ蛭川という地名がついたのかは諸説あるが、「蛭」という虫(の棲む湿地)がとりわけ多いわけではない。蛭川では、明治21年の役場火災によって貴重な史料が焼失されたこともあり、確たる地名の由来は確定できていない。歴史的には、現在の中津川市、恵那市、加茂郡とつながりをもって変遷してきている。

歴史

  • 古代 絵下郷(現中津川市域)に属していたと考えられる。
  • 中世 白山神社の「加茂郡安弘見郷今村」(現蛭川今洞)という棟札が最古の文字として残る。
  • 近世 「恵那郡遠山庄安弘見郷蛭川」として苗木藩の南方村々に属する。
  • 明治 3(1870)年 苗木藩校日新館の支校を開校 廃仏毀釈断行:宝林寺・普門庵廃寺
  • 明治 6(1873)年 宝林寺跡に勤彊義校開校、2年後尾越に蛭川学校新築
  • 明治11(1878)年 高徳寺として(普門院)再建
  • 明治12(1879)年 区町村会法制定「岐阜県恵那郡蛭川村」と呼ぶ。
  • 明治17(1884)年 連合役場(蛭川、中野方、毛呂窪、姫栗、高山)が蛭川に置かれる。
  • 明治27(1894)年 安弘見報徳社創設
  • 明治30(1897)年 連合役場を解き、蛭川村単独村となる。
  • 明治34(1901)年 蛭子座完成
  • 明治42(1909)年 最初の東雲橋架設
  • 明治43(1910)年 内務省より優良村表彰を受ける。済美図書館開館
  • 大正 4(1915)年 井口丑二神国教立教
  • 大正13(1924)年 大井発電所ダム完成
  • 昭和22(1947)年 国保診療所「報徳保健院」(後の報徳病院)開院
  • 昭和24(1949)年 恵那高校蛭川分校開校(~昭和45年)
  • 昭和29(1954)年 大井町との合併決議、その後撤回
  • 昭和36(1961)年 「杵振り踊り」県無形民俗文化財指定
  • 昭和52(1977)年 恵那峡大橋完成
  • 平成17(2005)年 市町村合併「中津川市蛭川」となる。

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