和田川の甌穴(おうけつ)

更新日:2021年06月18日

ひるかわ・和田川の甌穴(おうけつ)のイラスト文字

概要

蛭川の中心部を南下し奥渡の大井ダム下で木曽川に合流する和田川は四季を通じ、子ども達をはぐくみ育てる大切な場所でした。川遊びで冷えた体を温めるのは河床に点在する丸く穿たれた穴の貯め水でした。その穴が甌穴(おうけつ)です。

和田川は、全長約11キロメートル、毎秒1トンの流水量の木曽川に注ぐ小さな一級河川ですが、中流から下流へかけて点在する500個を越える大小様々な甌穴は見事なものです。 (文責・東濃地区甌穴研究会会長 林強氏)

甌穴のアップ画像 甌穴のアップ画像2

甌穴はどうやってできた?

その成因はいろいろ考えられますが、一般的には洪水の渦が小石を捕り込んで削る浸食作用が第一の原因に上げられています。

ほかには風化作用や波食作用も考えられますが、和田川の甌穴はほとんど渦動水流の浸食で長年に渡って作られたもので、天然の芸術品と言っても過言ではありません。 

釜ン田の甌穴画像

釜ン田の甌穴

蛭川の甌穴

棚田区から下流は花崗岩の岩盤が河床に顕れ、特に奈良井区釜ン田、田原区霧ケ釜、鹿之湯などは甌穴の宝庫で目を奪うものがあります。

中でも霧ケ釜お不動様には直径6メートル、深さ8メートルの大甌穴があり、何万トンという大岩で保護され、8メートルの滝壺にもなっており現在も大渦を巻き浸食作用が続き壮観さは訪れる人々に感嘆の声を上げさせています。

釜ン田や銚子ケ淵、笙之音の地名は甌穴に由来したものです。鹿之湯八景の甌穴や鳩吹区のパンダ岩の甌穴は天然の彫刻・芸術品としてもかなりな評価が出来るものです。

霧ヶ釜の甌穴画像

霧ヶ釜の甌穴

銚子ケ淵の甌穴画像

銚子ケ淵の甌穴

パンダの顔のように見えるパンダ岩画像

パンダ岩

鹿之湯の甌穴画像

鹿之湯の甌穴

甌穴と人とのかかわり

地域古老の言い伝えに、山窩の一族は甌穴で湯を沸かし風呂桶や消毒桶として使ったり河川の漁法でも重宝なものであったと聞きます。

また甌穴の近くには古墳・古い神社があることからも、大昔から現代まで甌穴は人間生活に深く関わりを持ってきたものと考えられます。

観光資源としても、和田川の魚類の生態系変化や水質の汚濁からも甌穴の再評価とその観察保護は今後の蛭川の環境教育の上から重要な任務を持っていると考えられます。

蛭川の甌穴を訪ねて

河床に穿たれた"美"~甌穴を見つめ~

丸く穴の開いた甌穴のアップ画像

河床を眺めると、ときたま丸く穿(うが)たれた穴を見ることがある。これが甌穴(おうけつ)だ。

甌穴は、ほかにポットホールとかジャイアントケトル、櫃(ひつ)、または瓶穴などといわれ、洪水の渦と、そこに取り込まれた小石によって長い年月に穿たれたものである。

東濃を流れる木曽、土岐、矢作の三川やその支流には、それぞれ特徴を持った美しい甌穴が見られる。

このような一つ一つの甌穴にスポットをあて、地域住民をはぐくみ、歴史を見つめてきた甌穴として、随想と会員の句を添えて紹介したい。この活動で、甌穴の美しさが再認識され、自然・河川保護・美化の見直しの一助になれば幸甚である。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

青石につつましい穴~和田川最上流~

少し青みがかった石の甌穴

春四月、蛭川の住民の心を躍動させる杵振り祭りがある。その安弘見神社の南の和田川に架かる橋を宝利屋橋という。

郡上の吉田川ほどの迫力はないが、近くの子どもが夏になると、この橋から淵へと飛び込んでいる。そのにぎわいを岩場でみつめる、幼子たちが腰を据える左岸の濃飛流紋岩に拳大のくぼみがみられる。小さいが、和田川最上流の岩に穿(うが)たれた甌穴。

遠ヶ根峠を源流に恵那峡大井ダム下で木曽川へと流れる一級河川和田川。その下流一帯に見られる500を超える和田川の甌穴が花こう岩の岩盤に穿たれているのに対し、ここだけが青石に刻まれ、美しさを醸し出している。

(文:甌穴研究会会長 林 強 氏、写真:同会員 林 渡 氏)

昔は子どもの天国~桧淵・土場~

浅いお皿に水が溜まっている甌穴

中切の縦壁から棚田桧淵(ふち)へと、和田川は直交する断層に現れた岸壁に阻まれ、蛇行しながら南下していく。途中、大西橋下流から河床は花こう岩がむき出しとなって、各所に甌穴の痕跡をとどめている。

この淵から下流土場の一帯は護岸工事や河川の改修が進み、高い堤防に阻まれているが、かつては土場には飛び石があり、写真のようななめらかで浅いお皿のような甌穴も並び、流れに乗ってウオータースライダーを楽しんだものである。

ザッコやドジョウなどの魚が群れ泳ぎ、一日中遊んでいても飽きることがない子どもの天国であった。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

南朝伝説 今に伝える~蛭川の旗巻き淵~

旗巻き淵の大岩盤の甌穴

鳩吹の繁華街も今は様変わりし、静かな町並みである。その一角、大久保屋裏の大きな淵(ふち)は旗巻き淵。下流の四十部という場所には紙屋用水の堰(せき)提もあって、深さ3メートルの淵は勇壮で大きく渦を巻いていた。かつての蛭川の子どもは先生の引率でこの淵に飛び込み、水泳を楽しみ、体を鍛えるのが常でした。

明治時代、蛭川に残る南朝伝説を学術的に解明することに取り組んだ今井福山の書が大久保屋に掲げてある。その大意は南朝の遺臣は戦の疲れをこの淵で癒やし、旗指巻を巻き納めたとか。その左岸の大岩盤に風化が進んだため、やや荒削りになった子どものころを思い出させる懐かしい甌穴がある。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

大渦へ連れ去られる・・・~旗巻き淵のカッパ伝説~

旗巻き淵の大甌穴

夏の旗巻き淵はカッパ天国―。蛭川小学校の高学年の子どもたちが遊び、大変にぎやかだ。油断をしていると中央の大きな渦に巻き込まれそうになり、必死に脱出を試みる姿もある。この旗巻き淵の大渦にはカッパがすんでいて、子どもを連れて行くという話がある。連れ去られた子どもは、遠く木曽川の藤戸の瀬(今は恵那峡の湖底に眠る)にある大甌穴に浮き上がったという。

2000(平成12)年度の護岸および右岸堤防道路工事でえん提を切り払うと、旗巻き淵の湖底に直径、深さともに2メートルの大甌穴がその姿を現した。また、10人分のかば焼きがとれそうな大ウナギも生息していたという。大渦を生み出し、淵の主もすむ旗巻き淵にふさわしい大甌穴である。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

信仰の岩に畏敬の念~パンダそっくり「丸岩」~

斜めから見るとパンダに見える甌穴

旗巻き淵下流のこの岩は丸岩といわれ、信仰の岩で、頂上のぽっかり空いた甌穴には、さい銭が投げ込まれていた時代もあった。

大昔の人々は、どのようにこの甌穴を見てきたのだろうか。丸い巨石の頂上にぽっかり空いた穴に恐れを抱き、神として崇拝し、祭りも行ったのではないだろうかと想像をたくましくしてみた。というのは、和田川に点在する多くの甌穴を広報に紹介するため写真撮影した際、出来上がった丸石の写真は前面の欠け落ちた2個の甌穴が目となり、表情豊かに語りかけて、パンダそっくりに見てとることができたからだ。

私の取り組みに称賛と励ましの言葉をくれたのではないかと思うと、畏敬の念がわいてくる。和田川の天然が刻んだ石の彫刻の王者をパンダ岩と命名した。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

 

流れに乗って遊べる~滑り川~

スプーン状に並んだ甌穴

昭和40年代まで蛭川は純農山村であった。ほとんどの人が農業に従事し、各家庭では牛馬や豚、ヤギなどの家畜の飼育が盛んで、春の田植え時や秋の麦まき時にはどこへいっても牛や馬が田起こしに汗を流している光景が見られた。夕方になると、一日働いた牛馬を和田川に連れて行き、洗ってやったものである。

牛馬の飼料となる雑草は育つ間も与えられず刈り取られ、あぜや野原の草だけでは足りなくて、和田川の河原の雑草も刈り取られ、河原は美しかった。今も樺瀬の一帯は、近くの農家の人たちの奉仕で雑草は刈り取られ、昔のままの美しさをとどめており、子どもたちがウオータースライダーを楽しんでいた。

このようなスプーン状の甌穴が滑らかに並び、流れに乗って遊べる場所が長瀞(ながとろ)、笙之音(しょうのと)など、和田川の各所にあった。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

子どもの格好の遊び場~樺瀬橋の甌穴~

樺瀬橋は子どもたちの登校の集合場所である。橋から川面をのぞくと浅いたらいを広げたような甌穴が並んでいた。欠け落ちた下流から入ったハヨが群れて泳いでおり、子どもたちの遊び心をかき立てる。その場にかばんを放り出し、川遊びしようとして班長にしかられることもたびたびあった。

薄氷の張った冬のある日、橋から眺めていると3年ゴイがせわしく泳いでいた。友と学校帰りの道草の約束をして早速、川をのぞいた。竹を拾って三方から追いかける間もなく甌穴の石の下に隠れた獲物。手ごろな石を頭上に構えて、そっと近づき投げつけた。しびれたコイを拾い上げ持ち帰った友の家で、たき火で焼いて食べたがすすびて苦いコイの味。このように和田川の甌穴は子どもの遊び場であり道場であった。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

濁流で30メートル流される~大水害~

洪水で抜け落ちた釜跡の甌穴

1932(昭和7)年9月、中津川市の四ツ目川災害の復旧応援に出掛けて1週間後、今度は和田川流域がバケツをひっくり返したような大雨に見舞われた。一気に流れる大洪水は橋を落とし石を転がし地響きをたてていた。

突然、笠置山が崩れ落ちたかと思われるような大地を揺るがす大音響、生きた心地もなく家族がおののき一本のろうそくを囲んで夜の明けるのを待った。

翌朝、濁流の流れを見て驚いた。釜ン田の大甌穴とふちを作っていた岩盤が裂け押し流されて、その姿を消してしまっていた。3つの大岩は30メートルも下流に押し流されていた。抜け落ちた釜跡には今も夏になると、地域の子どもたちが勢いよく高飛び込みを楽しんでいる。

(文・写真:東濃甌穴研究会会長 林 強 氏)

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