阿木にもお城があったんです!

更新日:2021年06月16日

阿木城はどこにありましたか?

阿木字大門前(見沢地区)にありました。阿木八幡神社裏の小高い山が阿木城跡です。登り口は恵那ディーゼル横の道を野内の方へ上がっていくと右側に見沢のお墓があり、そのお墓を通り越したすぐ左側に阿木城跡の標柱があります。そこが阿木城跡への登り口です。

いつ頃作られたものですか?

私たちが考えるお城は、石垣、高い堀、やぐら、天守閣、御殿などのある権威の象徴とのイメージが強いですが、阿木城はもう少し古い年代(中世)に多く作られた城館跡だそうです。日本史の時代区分で中世とは平安時代の終わり頃から室町時代で、阿木城が作られたのは今から約660年前といわれています。

阿木城は大変保存状態がよく、中世城館としての特徴的な遺構を今でも残し、周辺部の中世城館と比較しても規模が大きなものとなっているそうです。城館とは城、館、砦などのことをいい、領主の居所を指したり防御施設を有するものの総称です。

どのような目的で作られましたか?

阿木城は岩村城の子城(分家城)といわれています。美濃国の東部であるこの地域一帯は遠山の荘といい、鎌倉時代から遠山一族が勢力を張っていました。戦国期には領内に遠山十八城と呼ばれる18の子城を構え、阿木城もそのうちの一つと思われます。特にそのうちの有力な宗家である岩村、苗木、明智の城主を遠山三人衆と呼びました。

誰が住んでいましたか?

阿木城の前に岩村城について少しお話します。源頼朝の家来で伊豆に住んでいた加藤景廉が美濃国東部を治めるために地頭として1185年に遠山の荘に入り岩村城館を造りました。その後加藤氏は遠山の姓を名乗り、遠山景任が亡くなる1560年代まで遠山一族がこの地を治めました。

さて阿木城ですが、岩村城主遠山景長の頃(1330年頃)分家したと思われます。この後、いつの頃か堀田土井守という者が見沢に住んでいて阿木城を守っていたとされています。また、久須田にも少しばかり高い土地に屋敷跡があり、堀田といっています。そこから一直線に阿木川を渡り八幡神社に通じる道があったようです。今でも堀田屋敷と八幡神社の中間地点に鳥居が建っています。

堀田氏は阿木城に立てこもり武田軍と戦いましたが、武田の軍勢になんなく敗れ、城も焼かれてしまいました。岩村城も武田軍の手に落ちました。その後は織田、徳川時代と移り変わり、徳川時代にはお城は使用されず代官所が置かれました。

  • 初代 遠山左衛門三郎景賢
  • 二代 遠山左衛門太郎景経
  • 三代 遠山太郎景高
  • 四代 遠山又太郎景平
  • 五代 遠山阿木孫太郎
  • 六代 遠山孫次郎

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