第5分団

更新日:2021年06月14日

阿木城跡

阿木城があった林間の場所。記念碑が設置されている。

遠山の庄の出城として築かれたが大きな城ではなく「のろし」を上げて岩村に急を知らせるものであった。1570年ごろ、安岐孫太郎が守っていた。孫太郎は、武田軍と戦って討ち死にした。その後、堀田氏が守っていたが詳しくは不明である。この堀田氏は見沢殿とも呼ばれていた。野田にも砦がある。

見沢クラブ

集会所の建物外観

平成16年に完成した見沢クラブ。

阿木コミュニティ消防センター

消防センターの外観画像

平成10年に建設された。消防車が2台おいてある。地域の会合にも利用される。

明知鉄道阿木駅

ホーム側から見た阿木駅の外観画像

国鉄明知線が昭和8年に大井から阿木まで開通した。開通式では昼に花火をあげ、花火の中の落下傘をみんなで奪い合った。小学生が全員参加して、お祝いの村芝居も行われた。 明知鉄道は昭和60年に国鉄明知線を引き継いで第三セクター方式の経営形態として発足し開業した。

宮田クラブ

クラブ建物の外観画像

平成14年11月25日に完成した宮田クラブ。上田のお地蔵堂から弘法様(軸)、七福神、お地蔵様が移設され、クラブの中に安置されている。

宮田整田碑

記念碑の画像

耕地整理の記念碑。交換や灌漑(水を引くこと)などによって田んぼや畑を利用しやすくした。

農業集落排水処理場(若あゆの里)

施設の全景画像

農業集落排水資源循環統合補助事業の阿木地区処理場。平成19年に竣工。1・2・3・5・6・7・8区が処理区域。平成22年3月末現在で区域内の48.8%が繋ぎ込みを完了している。

道しるべ

道しるべの石の標識画像

江戸時代頃の昔の標識。『右 中津 いい沼』『左 大井 青野』と書いてある。

天神古墳

山の中の古墳跡の画像

古墳(昔の人のお墓)が2基ある。盗掘されてしまい、埋葬品などはなくなっている。この近くに住んでいた人々を支配していた人のお墓。南に向いた斜面に人々を見守るように作られた。

野田青野クラブ

クラブ施設の外観画像

野田と青野のクラブとして昭和55年ごろに完成した。

野田隧道(トンネル)

トンネルの入り口から見た画像

昭和20年、第2次世界大戦中に宮田、野田、久須田、八屋砥に軍需工場を作るため、朝鮮の人々を連行してきて掘らせた。終戦で工事は中止されたが、亜炭を運ぶための近道として半田市の加藤銀三郎さんが私財を投じて昭和22年に開通させた。当時は水や粘土でぬかるんでいたが、昭和44年に壁にコンクリートが吹き付けられ、安全に通れるようになった。

牛房ヶ洞のつつみ

田んぼの上にある堤ののり面画像

野田には川がなく、農業に使う水を確保することに苦労していたため、昭和8年ごろにため池が作られた。割合大きな堤であるが柵も無く危険である。昔は子どもの遊び場で、夏は魚釣りや菱の実を取ったり、冬は凍った池でスケートをしたが、氷が割れて落ちた人もいたそうです。

卍の坂

山の中の坂道の画像

上田から竹藪を抜けて野田に抜けていた旧道。昔は「野田・宮田道悪し・○○、○○口悪し」と揶揄された。昔はこの坂で葬式行列の練習をしたのでこの名が付いたとも言われている。赤土や粘土の水はけの悪い道で、学校の行き帰りは草履を脱いで駅まで歩くなど難儀をした。また、マンジ川ではメノウが取れることがある。

阿木ダムと道路

昭和40年に阿木ダムの建設が発表され、ダムから野田~八屋砥を通って岩村に抜ける道や、野田から飯沼に抜ける道が出来た。なお、昔、阿木川を阿曽田で渡り大井に抜ける重要な地域だったので、石造りの道路標識が所々にある。

中の島公園

湖畔に建てられた施設の全景画像

平成8年に完成した。さまざまなイベントが開催できるホールを備えた総合交流ターミナルと、キャンプや宿泊が出来るふれあい広場やコテージを備えている。

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