木曽五木あれこれ

更新日:2023年07月13日

木曽五木(きそごぼく)

木曽五木

    当館エントランスに展示してある木曽五木について紹介します。

宝永5年(1706)に良材保護のため停止木(ちょうじぼく)制が敷かれ、まず檜(ヒノキ)・椹(サワラ)・槙(コウヤマキ)・明檜(アスナロ)の四種を伐採することは禁じられました。その後、享保13年(1728)より四種に鼠子(ネズコ)を加えて「五木」となり、これがいわゆる木曽五木といわれています。この五木は畑の畦や道端にあっても伐採することは厳禁でした。(中津川市史中巻)

 

「檜一本に首一つ」

    山林の保護については資源確保のため、厳しい規制や禁制が敷かれるようになってきます。尾張藩内の木曽では盗伐などに対して「檜一本に首一つ」(或いは「木一本首一つ」)という諺も生まれた程です。実際どのような事例があったのか資料より抜粋してみたいと思います。

   寛文9年(1669)蘭村(現・南木曽町)の百姓・権右衛門が槙皮を盗み取ったとして捕らえられた。これは寛文2年(1662)に出された槙の皮剥ぎ禁止令に違反したもので、槙皮はヒノキやコウヤマキの内皮を砕いて柔らかい繊維にし、火縄銃の火種や火縄や舟や桶の水漏れ防止に使用する貴重品であった。吟味の結果、権右衛門は「見せしめ」として贄川から妻籠まで引き回しの上、蘭村において斬首の上獄門(さらし首)となり、妻子は尾張藩領外へ追放となった。(南木曽町誌)『村誌王瀧』

 

   延宝3年(1675)閏4月の末、湯舟沢山で槙皮がはがされた跡があったので、庄屋がこの事を報告した。その結果、木の数にして1333本に及んだというから、相当数であったので、何処の誰の仕業か、改めて吉村安左衛門、松井善左衛門を派遣し取り調べた結果、湯舟沢村の徳左衛門であることが分かった。そこで徳左衛門を召し捕らえた。(略)この事は尾張表に報告され、遂に梟首(さらし首)にされ、妻子は追放された。(岐蘇古今沿革志)『中津川市史』

 

中山道地図

   贄川(にえかわ)から妻籠(つまご)までの宿場地図です。約70キロあります。引きずられた距離です。恐ろしいですね。

取締りの緩和

    取締りがはじまった寛文年間当初はこのような極刑もありましたが、時代を経るに従って取締りは緩和され、重い場合で追放、軽いものは過料(罰金)程度で済むようになりました。弘化4年(1847)の「三浦山盗伐等御仕置御定」によれば盗伐に対する刑罰は次のようになっています。

一、御留山で盗伐した者

  • 頭取 重追放(地元の国及び関東・近畿の十五カ国から追放)
  • 頭取に准ずる者 中追放(地元の国、関東・近畿の九ヵ国から追放)
  • 同類 牢舎(投獄)三十日
  • 盗伐人と地元の庄屋・組頭 過料三貫文

一、御留山内で皮剥ぎ・枝打ちした者

  • 牢舎 三十日
  • 背人と地元の庄屋・組頭 急度(厳しく)叱り

一、明山 停止木等を背伐りした者

  • 頭取 木曽谷中並びに(美濃)三ヵ村追放
  • 頭取に准ずる者 牢舎(投獄)三十日
  • 同類 手錠三十日
  • 背人と地元の庄屋・組頭 過料一貫文

一、明山で停止木の皮剥・枝打ちした者

  • 手錠 三十日
  • 背人と地元の庄屋・組頭 叱り

一、留山で盗伐木と知りながら買い取った者

  • 牢舎 三十日

一、盗伐木と知らずに買い取った者

  • 手錠 三十日

一、盗伐した木材を所持する者

  • すべて取り上げ(没収)

 

以下略 『村誌王瀧』

 

しかし、山に生きて来た人の生活はとても厳しく仕事を求めて他国へ出稼ぎに行くことを余儀なくされました。

中津川市中山道歴史資料館

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