⦅中津川宿30⦆皇女和宮 中津川宿泊と大行列

更新日:2022年11月22日

皇女和宮とは

皇女和宮『幕末・明治・大正回顧八十年史』より

皇女和宮 『幕末・明治・大正回顧八十年史』

1933 ~1934 東洋文化協會  (Wikipediaより)

皇女和宮は正式には和宮(

かずのみや
)親子(ちかこ)
内親王(ないしんのう)(1846~1877年)と言い、仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の妹であり、14代将軍 徳川家茂の正室です。


和宮は誕生時に賜わった幼名で、親子は文久元(1861)年の内親王宣下に際して賜わった諱、家茂の死後には落飾し、静寛院宮と名乗りました。


和宮は、有栖川(ありすがわの)宮熾(みやたる)(ひと)親王(しんのう)と6歳の時から許嫁でした。

孝明天皇は、妹に許嫁がいること、妹が幼いこと、江戸は治安が悪い地と聞いていたことから、降嫁には賛成しかねておられましたが、結局は降嫁ということになってしまいました。


勿論、和宮もお断りしていたのでしたが、兄の孝明天皇の苦しい胸の内を察し、

惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消えても

と詠まれ、和宮自身も悲痛な決意をされたのでした。


しかし、家茂は温厚で思慮深い若者で、和宮の他には側室をもつことがなかったといいます。しだいに和宮も心を許し、仲の良い結婚生活を送ったようです。


しかしその生活は短く、和宮が降嫁したわずか4年後、家茂は20歳という若さで亡くなってしまいました。


家茂の死後、姑である天璋院(篤姫)と力を合わせ、大政奉還の際の無血開城に力を尽くしました。


和宮はその後、わずか32歳という若さでこの世を去りますが、「家茂のそばに葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺に葬られました。

皇女和宮の通行

和宮の通行

文久元(1861)年、孝明天皇の妹である和宮親子内親王が第14代将軍徳川家茂のところへ降嫁しました。


出発は昔の暦でいえば10月20日京都を出発されました。今の11月下旬から12月上旬です。

今のように暖冬ではありませんし、暖房などありません。寒い、寒いときでした。


だんだんと京都から離れていきます。強い決意で出発したのですが、心細くなっていきます。数えの16歳ですから今の中学3年生です。


後ろをふりむきながら、

住み慣れし 都路出でて 今日いく日 急ぐもつらき 東路の旅

こんな歌も詠まれながら中津川宿に着かれたのは10月29日でした。

中津川宿泊と大行列

皇女和宮 中津川宿泊と大行列
中津川宿泊と大行列

和宮通行記録中津川宿落合宿表紙

当館寄託 個人蔵

中津川宿へは10月29日午後4時頃到着しました。夜中には雨がひどくなり、翌朝の出発から昼まで続きました。


この皇女和宮の大行列は、付き従うお供の者たち、江戸から迎えに来られた人、朝廷から付き従う人、前後左右を守りながら警護していく武士たち、荷物を運んでいく人たちなど全部あわせると、約2万人以上ともいわれ、長さ77kmにもおよんだといわれています。


だから、その行列が通り過ぎるまでに4日間もかかったといわれています。


島崎藤村『夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれています。


そして、中山道経由で無事江戸城入りした和宮は文久2(1862)年2月11日、第14代将軍徳川家茂と結婚します。

中津川市中山道歴史資料館

〒508-0041 岐阜県中津川市本町二丁目2-21
電話番号0573-66-6888
ファックス0573-66-7021
メールによるお問い合わせ