⦅中津川宿26⦆水戸天狗党との関わり
天狗党通行地図
天狗党とは
水戸藩は江戸中期ころから保守派と改革派に分かれて、何かにつけて対立していました。
保守派は今までの秩序などを守ろうとする人々で、上級武士が多く、江戸幕府の方針に従おうという人たちでした。彼らは諸生党と呼ばれていました。
一方改革派は、変化する時代に対応するため、新しい政策に改めようという人々で、下級武士が多く、幕府よりも朝廷を重んずる人たちでした。この改革派の中の、より急進的な人たちが天狗党とよばれたのです。
天狗党、京都に向かう
京都にいる水戸出身の一橋慶喜様を通じて、自分たちの志を朝廷に訴えようと、京都に向かうことになりました。
総大将は武田耕雲斎、副将に田丸稲之右衛門と藤田小四郎がなり、元治元(1864)年11月1日、天狗党は西上を開始ししました。
11月20日には和田峠で待ち伏せしていた、高島藩・松本藩連合軍2000人と交戦し、激戦の末これにも勝利しますが、横田藤四郎の息子で18歳の横田元綱はこの地で戦死します。
武田耕雲斎
武田耕雲斎筆書画 個人蔵
水戸藩士で徳川斉昭の藩主擁立につくし、改革派の中心人物として藩政に参加しました。
元治元(1864)年、田丸稲之右衛門や藤田小四郎らの天狗党総大将におされ同志をひきいて京都に向かいました。
途中越前で加賀金沢藩に降伏し,元治2年2月4日敦賀で処刑されました。
右の書画は水戸浪士総大将であった武田耕雲斎の筆によるといわれています。
天狗党、飯田を経て中津川へ
天狗党は和田峠の戦いに勝利した後、下諏訪で伊那街道に入ります。
これまで進んできた中山道の行く手には、尾張藩が管轄する木曽福島の関所があったためです。
また伊那谷には、たくさんの平田国学者がいたため道を変えたともいわれています。
一行は清内路峠を越えて中山道に合流し、馬籠、落合に分宿して一泊します。そして翌11月27日、中津川宿にやって来て、ここで昼食・休憩をとりました。
天狗党、中津川宿に入る
幕府からは賊軍とみなされている天狗党は、どこの土地でも恐れられました。しかし、彼らを待っていた中津川宿の人たちは、彼らを歓待しました。
宿場の通りに並ぶ温かい五平餅やきしめん、酒や茶。しかも、他の宿ではこわがって近づいてくることさえなかった女性と子どもたちまで、にこやかに迎えてくれているのです。宿場を出るときには、藁で巻いて作った納豆までもたせています。
市岡家風説留「筑波颪」
風説留 筑波颪 個人蔵
水戸浪士に関する情報のみを綴り込んだ風説留です。
11月27日の中津川宿の様子については、「四つ目川沿いの茶屋三軒にご飯を炊かせて護兵餅(五平餅のこと)をつくり、また、納豆をつくり天狗勢にもたせた」とかかれています。
水戸浪士揮毫掛軸
水戸浪士揮毫掛軸 個人蔵
水戸天狗党の浪士一行は元治元(1864)年11月27日、中津川宿を通過しました。
その時、やまはん間家で休憩したのは須藤敬之進・根本新平・高野長五郎・桑屋元三郎・黒沢利八郎・大津雄太郎・樫村平太郎の7名でした。
彼らは寄せ書きにそれぞれの思いを託しました。
最上段の「静楽」(須藤敬之進)、その下の「周遊」(高野長五郎)、下段右から2行目の「従水斷」(樫村平太郎)等々、間家のもてなしに浪士たちが心静かに楽しんでいる様子がうかがえる寄せ書きになっています。
横田元綱(よこた もとつな)の墓
一行の一人横田藤四郎祈綱は、和田峠の戦いで戦死した息子元綱の首を布に包み、持ち歩いていました。埋めた場所がわかれば、賊軍の兵士の首としてひどいことをされてしまうからです。
中津川宿の市岡殷政と間秀矩は、その首を預かり、自分たちゆかりの墓地に手厚く葬ったのでした。
賊軍を歓待することに関しては、ある程度尾張藩と連絡を取り合っていたのですが、戦死した賊軍の者を葬ることは、幕府に背く重大な罪です。それでも自分たちを頼ってきた人たち、しかも主義主張を同じくする人たちに対して中津川宿の人々は、命をかけてそれに応えようとしたのです。
田丸稲之右衛門より下賜の鎧袖
鎧袖 個人蔵
横田元綱の首級埋葬に感激した副将の田丸稲之右衛門は、自らの鎧袖を市岡長右衛門殷政と間半兵衛秀矩に下賜しました。
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更新日:2021年05月08日