⦅中津川宿4⦆前田青邨と中津川宿

更新日:2022年11月18日

前田青邨生誕の地

前田青邨誕生の地1

中山道中津川宿新町

「前田青邨画伯生誕の地」の

前田青邨誕生の地東隣の近又旅館

中津川宿新町「近又旅館」

明治40年代の写真

一軒おいた西隣りが青邨の生家

 

中山道を淀川町を抜けて新町通りに入ると、右手歩道脇に「前田青邨画伯生誕の地」と記された碑があります。日本画の巨匠であり、中津川市の誇る名誉市民です。


青邨は、明治18(1885) 年 父常吉、母たかの二男として中津川村に生まれ、簾造(れんぞう)と名づけられました。


生家は、「一軒おいた東隣りに近又楼(近又旅館)」と回顧していることから、碑の西方付近と思われます。


幼い時から絵が上手で、画家を志し、16歳のとき上京しました。作家 尾崎紅葉の紹介で画家 梶田半古の絵の塾に入るためです。


明治35年、17歳で第7回日本美術院展に武者画「金子忠家」が入賞し、師の判古から「青邨」という雅号をもらいました。


青邨は、明るく闊達な性格で、誰とでも気持ちよく談笑したと伝えられていますが、「自分のすべては、絵の中にある」として、記録、語録をほとんど残していません。

故郷中津川への思慕

「歳を重ねると故郷への思慕は募るものだ」
前田青邨写真 「歳を重ねると故郷への思慕は募るものだ」

前田青邨画伯の写真

撮影は昭和31年 中津高校の教諭によるものと言われています

中山道歴史資料館展示室入口

中山道歴史資料館展示室入口

中津川歴史資料館の展示室入口に掲げてある「郷里の先覚」の肖像画2枚(複製)は、小説『夜明け前』に出てくるモデルで幕末維新の中津川宿を代表する本陣の市岡殷政(浅見景蔵)と豪商の間秀矩(蜂谷香蔵)で、前田青邨により昭和22(1947)年に描かれたものです。


太平洋戦争中、中津川に疎開してきた青邨は、郷里の歴史をあらためて学び、新しい時代を切り開くために命をかけたこの二人の人物のことについて深く知り、感銘をうけます。

その感銘をもとにして描いたのがこの「郷里の先覚」です。


これ以後青邨は、毎年のように故郷中津川を訪れ、郷里の自然や街並み、なじみ深い人たちなどをスケッチしています。

疎開した郷里での経験、学び、そしてその集大成として院展に出品したこの作品の完成は、青邨にとってふるさと中津川に対する誇りと愛着をより一層深めるものだったのではないでしょうか。

前田青邨のあゆみ

明治18(1885) 年 前田常吉、たかの二男として中津川村に生まれ、簾造(れんぞう)と名づけられる。

明治24(1891)年 6歳 中津川尋常高等小学校に入学。

明治30(1897)年 12歳 中津川尋常高等小学校を卒業する。

明治31(1898)年 13歳 母たか死去(38歳)。上京し、京華中学校に入学するが、すぐに病気にかかり、療養する。

明治32(1899)年 14歳 京華中学校を中途退学し、中津川へ帰郷。母校の補習科へ通学する。

明治34(1901)年 16歳 絵描きになる決心をし、再び上京。作家尾崎紅葉の紹介で梶田半古の内弟子となる。

明治35(1902)年 17歳 日本美術院・日本絵画協会共進会に「金子家忠」を初出品、三等褒状を受ける。この時師である半古から「青邨」の雅号をもらう。

明治40(1907)年 22歳 第一回文部省美術展覧会に「大久米命」を出品するが、落選する。

明治41(1908)年 23歳 国画玉成会展覧会に「囚われたる重衡」を出品、3等賞第2席を受賞。

明治42(1909)年 24歳 名古屋において重病、療養する。中津川の南林寺格天井に絵を描く

明治43(1910)年 25歳 国画玉成会において、幹事に選出される。父常吉死去。

明治45(1912)年 27歳 荻江節の名手佐橋すゑと結婚。

大正 2(1913)年 28歳 平塚へ転居。

大正 4(1915)年 30歳 一人で朝鮮へ旅行

大正 6(1917)年 32歳 横浜市渡辺山に転居

大正 7(1918)年 33歳 大阪高島屋で初の個展を開催

大正 8(1919)年 34歳 中国に旅行。持病悪化のため、大磯妙大寺に逗留。

大正11(1922)年 37歳 小林古径とともに海外研修生に選ばれ渡欧。

大正12(1923)年 38歳 欧州より帰国。9月関東大震災に遭遇。

昭和 4(1929)年  44歳 「洞窟の頼朝」を院展に出品。翌年第一回朝日賞を受賞。

昭和14(1939)年 54歳 北鎌倉に転居。歌舞伎座で「太閤記」の舞台装置を担当。

昭和20(1945)年 60歳 3月中津川へ疎開。10月疎開先より北鎌倉の自宅へ戻る。

昭和21(1946)年 61歳。文部省第一回日本美術展覧会(日展)の審査員を務める。

昭和22(1947)年 62歳。院展に「郷里の先覚」を出品。

昭和26(1951)年 66歳。東京芸術大学美術学部日本画家主任教授に就任。

昭和30(1955)年 70歳。皇居の饗応の間を飾る作品を依頼され、「石橋」を制作。中津川市名誉市民となる。11月3日文化勲章を受章。

昭和34(1959)年 74歳。東京藝術大学名誉教授となる。この年、皇后陛下の絵の指導役となる。

昭和35(1960)年 75歳。中国人民対外文化協会の招待により中国を訪問する。

昭和42(1967)年 82歳。法隆寺金堂壁画再現事業の中心となり、翌年2月に完成。

昭和47(1970)年  85歳。高松塚古墳壁画模写の総監修を委託され、2年後完成する。

昭和49(1974)年 89歳。ヴァチカン近代美術館より依頼された「細川ガラシャ夫人像」が完成。

昭和52(1977)年 92歳。10月27日午後3時59分、老衰のため死去。

中津川市中山道歴史資料館

〒508-0041 岐阜県中津川市本町二丁目2-21
電話番号0573-66-6888
ファックス0573-66-7021
メールによるお問い合わせ