⦅中津川宿31⦆大奥老女花園と中津川宿
上臈御年寄 花園一行の中津川宿 山半間家宿泊
花園たちが宿泊した山半間家
皇女和宮を江戸から京都へまで迎えに行き、道中の世話をし共に下向したのが大奥上臈御年寄「花園」という人でした。
文久元(1861)年10月20日京都を出発し、中津川宿の宿泊は10月29日でした。花園たちの中津川宿の宿泊は新町の「十八屋山半間半兵衛秀矩家」でした。
間秀矩の妻「おたに」、娘「おみつ」はじめ間家の家人たちは大変親切なおもてなしをしました。なかでもおみつは当時13歳でしたが、大奥の命をよくわきまえ、かいがいしく尽くしました。
一行が江戸に着かれて5月に入ると、花園お付き奥女中「喜の」から、道中大変親切にされたと間家へ感謝の気持ちを伝える書状が届きました。
「長々の道中の中で、こんなに親切にしていただいた宿は、どこにもありません。云々」
茄子の芥子漬けや自然薯、おろく櫛のお礼、秀矩の娘おみつへの言づてなど面々としたためられていました。
さらに、2箱の手文庫が送られてきました。その中にはきれいな絵柄の筥迫、御所人形、犬人形、錦絵などがありました。
花園はその翌年にも京に上り、その帰りの途、中山道を通り、間家に立ち寄られました。お礼を申し上げるためだったのでしょう。
大奥や奥女中から間家に寄せられた感謝の手紙が8通ほどありますが、どれも間家の親切に対して繰り返し繰り返し感謝の気持ちを述べ、そにて娘のおみつさんのことを褒めています。
花園一行をもてなした十八屋山半間家の女性たち
大奥女中「妻緒・とまや」から「たに・みつ」宛の書状
当館寄託 個人蔵
この二人の奥女中からも、書状が送られてきました。
「昨年、御下向の折には御宿に御當り、色々御深切に成られ下すべく候。(中略)花園様、岡の様、山田様にも殊の外殊の外御悦び様にて御噂のみ遊し候」とあり、「御娘子も御縁御さ候て、一度は御本丸へ御上ヶ申し度と存じ居り参らせ候。併し、いかにも遠方の事ゆへ致し方なく、御縁のみ伝えおり参らせ候」
「娘のみつを近くの娘ならば、ぜひ江戸城の大奥勤めに出させたいものだ、云々」と述べています。
母親のたににとっては、この上ないほめ言葉になったものと思われます。
おたにさん(間たに)
花園下賜品 当館寄託 個人蔵
間秀矩の妻で、出身は中津川宿の大津屋菅井家。
文久元(1861)年10月29日、皇女和宮は、下向の際ここ中津川宿の本陣にて宿泊しました。
同行した大奥上臈御年寄の花園は、山半間家間秀矩宅に宿泊しました。
山半間家は酒造業を主な生業とし、安政3(1856)年から明治初年まで問屋も務めました。
大奥御女中衆一行をもてなしたのは、たにと娘のみつ(13歳)でした。
翌年、女中衆から相次いでそのもてなしぶりに感激して、書状(8通ほど)や下賜の品々が、たに・みつ宛に送られて来ました。
最初に届いた手紙には、「本当に長い旅でしたが皆様方ほど親切におもてなし下さいました所はありません。みんな集まってはその時の話ばかりです。」(文久2年5月3日付おたに宛て)と書かれていました。
秀矩・たに夫婦はその後、茄子の芥子漬け一桶を大奥の花園宛に送りました。
おみつさん(間みつ)
花園下賜品 当館寄託 個人蔵
間秀矩の娘で、13歳の時に母親とともに大奥の花園一行をもてなします。
満津という女中から秀矩・御家内宛の書状には、「御娘子、よふはたらきまいらせ候て、山里ニハめつらしきめつらしきたち居と申、御勇しく、江戸・京にもはつかしく、御近くなら御召つれ被遊たくと御噂被遊候、よき御子持に御座候ト、いまに申くらし候」とあります。
また、みつは文久2(1862)年2月23日から翌月20日までの約1ヶ月間、父秀矩とともに伊勢参宮の長旅に出ました。
さらに、翌年2月には同じく父秀矩とともに、政局渦巻く京都の旅行に同伴していています。この旅は2ヶ月以上の長旅でもありました。
花園たちからの下賜品一部
送り状 当館寄託 個人蔵
手文庫 当館寄託 個人蔵
広重の錦絵五十三次 当館寄託 個人蔵
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更新日:2022年11月22日