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激動の幕末から明治維新 ~中津川宿平田門人の活躍~

中津川宿と幕藩体制の危機の顕在化

中津川宿は近隣地方の中心地で、島崎藤村の『夜明け前』は、「そのころの馬籠は一分か二分の金を借りるにも隣宿の妻籠か美濃の中津川まで出なければならなかった」と書いています。

天保7年(1836)、全国的に大飢饉に襲われ、元大坂町奉行所与力であった大塩平八郎は人民の救済を訴えたが聞き入れられず乱を起こしました。これが大塩平八郎の乱で、幕吏が体制に歯向かった衝撃的な事件でした。

幕府は天保の改革を進め、建て直しを図ろうとしましたが、諸藩を含めて財政危機はより深刻化し、幕末の動乱が始まりました。

平田国学と中津川宿の国学者たち

「この世に王と民としかいなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直す」「古代に帰ることはすなわち自然に帰ることであり、自然に帰ることはすなわち新しき古を発見することである」(『夜明け前』)と教える平田国学に、中津川宿の多くの人々が入門しました。勉学に励み、全国の同門の志士たちと情報を交換し、家業を投げうって国事に奔走したのも、「新しき古」の世界の実現にありました。

平田門人姓名録

平田門人姓名録

平田門に入門した人々の名前などを慶応2年(1866)まで記録したもの

水戸浪士の中津川宿通行

『夜明け前』では「水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊。中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った」とありますが、中津川では宿をあげて歓待しました。幕府から賊軍とされ、追討の命が出されていた浪士をもてなせば厳罰をうけることになりますが、中津川宿の指導者たちは周到な手はずをとっていました。

「藤三郎、当年十八歳になるものの首級⋯⋯景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地に、それを埋葬した。」(『同書』) これは中津川実戸さんとに祀られている横田元綱のことです。この埋葬には、決死の覚悟が必要でした。

薩長同盟から王政復古へ

「『御主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ⋯⋯』」(『夜明け前』)。

通商条約が勅許されたのは、慶応元年(1865)10月5日のことでした。これを知った市岡長右衛門殷政しげまさはざま半兵衛秀矩ひでのりは、上京して公家へ建白しました。長州戦争に敗れた幕府は、その権威を失墜させました。薩摩藩と長州藩は同盟を結び、世の流れは一気に倒幕から王政復古へと加速していきました。

国立歴史民俗博物館館長である宮地正人教授によって薩長同盟が軍事同盟であることが論証された京都伊勢屋池村邦則の書状は、市岡家に保存され、現在当館に展示してあります。

鳥羽伏見の戦いから明治維新へ

「東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川付近の地点に起ったとのうわさも伝わった」(『夜明け前』)という鳥羽伏見の戦い以後、幕府方は朝敵となりました。各道には追討の命を帯びた鎮撫軍が派出されました。中山道には岩倉具定の率いる東山道鎮撫軍が進駐してきました。

中津川宿の平田門人らあてに、岩倉家から嚮導を依頼する書状が届き、彼らは赤坂宿から下諏訪宿まで従軍して、無事にその役目を果しました。その脳裡には「新しき古」の世の実現がありました。

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