⦅資料紹介9⦆木曽五木

更新日:2021年04月01日

当館エントランス展示の木曽五木

当館エントランス展示の木曽五木

左から、ヒノキ、サワラ、アスヒ、コウヤマキ、ネズコ

木曽五木とは

ヒノキ・サワラ・アスヒ(アスナロ)・コウヤマキ・ネズコの5つの樹木を「木曽五木」と呼んでいます。

木曽5木の説明

木曽五木の由来

元和元(1615)年に木曽谷33ヶ村と裏木曽3ヶ村(川上村・付知村・加子母村)が、尾張藩領となり、各地の城郭・城下町の建築用材として大量に木が伐採されました。

寛文4(1664)年、尾張藩は木曽谷中の巡見を行い、濫伐のために山林がはなはだしく荒廃している状況を見、山林保護の方法として翌5年木種の最も良い所を選んで「留山(どめやま)」とし、村民の立入りを厳格に禁止しました。

特に湯舟沢と田立のニヶ村は総山が留山に指定されました。

また、鷹狩りに必要な鷹を巣の中にいるひな鳥のうちに獲る目的で、山林中の最も繁茂している所を選び区画して「巣山」とし、やはり村民の立入を禁止しました。

留山と巣山以外の土地は「明山」と称し、村民が自由に立ち入ることができ、日常生活に必要な家作(かさく)(ぼく)、薪、下草等を採集できました。

しかし、ヒノキ・コウヤマキ・サワラ・アスナロ(アスヒ)・ネズコの5種の木は絶対に伐ることを禁じられ、たとえ明山にあろうと手を触れることさえできないほど厳しく、「ヒノキ一本首一つ」と言い、盗伐、背伐などを犯した者は厳罰に処せられました。

この5つの 樹木を「木曽五木」と呼ぶようになりました。

木曽5木の葉

木曽五木の葉

木曽山林事件

やがて江戸時代が終わり明治時代になると、政府は木曽の山々を官有林(後に御料林)とし、今まで住民の入会山であった明山も大部分が官有林となり、木曽や裏木曽3ヶ村(川上村・付知村・加子母村)の住民たちは、山から自由に木を伐ることができなくなってしまいました。

このような状況の中で、その住人たちは、共同して官林の民有林への払いもどし運動をおこしました。

この木曽山林事件の歎願(たんがん)は、文豪島崎藤村の父で当時の馬籠村戸長であった島崎重寛もかかわっていました。

木曽の文豪島崎藤村は、木曽御料林事件、木曽山林事件と通称されるこれらの一件を小説『夜明け前』で触れています。

裏木曽中津川( 川上・付知・加子母)とは

裏木曽とは、長野県木曽地域に接した中津川市(川上(かわうえ)付知(つけち)加子母(かしも))地域のことです。

昔々から、良質な材木が全国へ送り出されてきました。

伊勢神宮の20年に一度行われる式年遷宮には、約700年前から木曽谷・裏木曽のヒノキが使用され続けています。

江戸時代の1600年代には、日本全国の築城のためこの地域の大量の材木が伐採されました。

尾張藩の名古屋城をつくるのにももちろん使われ、内木家所蔵の古文書によると、約7割の木材が裏木曽から切り出されていました。

しかし、江戸時代の1700年代になると、そんな裏木曽の木々が伐採のし過ぎで枯渇していきました。

そこで、尾張藩は裏木曽の山々を管理する「山守(やまもり)」という役職を現地におくことを決めました。

1730年、山守に任せられたのは、加子母村の庄屋だった内木家の10代目彦七、以来、明治へと移り変わる1872年まで142年間、内木家の一族はじめその地域住民が裏木曽の山を見守ってきたのです。

 

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