⦅資料紹介5⦆江戸時代の人々も使った旅のガイドと絵図
上の資料は、「中仙道善光寺御宿附」というもので、四国の金毘羅から京都の伏見、中山道を大津から板橋までの宿場間の距離数と旅籠名が書かれています。下は「大日本早引細見繪図」という資料で、北は蝦夷から,南は九州までの主な街道と宿場が記入された絵図です。 1800年代になると,新田開発や農機具の進歩などによって各地の米の生産高は,飛躍的に伸びました。また、京・大坂・江戸などの大都市近郊の農民は綿・果物・野菜など、米以外の農作物を作り、それを売って利益を得ました。地方でも楮(こうぞ)から紙を生産したり、櫨(はぜ)や漆(うるし)を原料にして蝋燭(ろうそく)を作ったりして利益を上げました。このような人々の努力や創意工夫によって、江戸時代後期の民衆の生活は豊かになりました。それに伴い空前の旅行ブームが訪れます。お伊勢参り、金毘羅参り、善光寺参りなど、神社仏閣へのお参りが、その当時の旅の主な目的でした。くらしが豊かになったといっても目指す神社仏閣まで旅をするには相当な資金が必要です。そのため大勢の人々がお金を出し合い、代表者が順番に旅に出かける「講」という仕組みが各地にできました。「伊勢講」などはその代表的なものです。 今も旅行に行くのに、その行程やかかる時間,途中立ち寄る場所の名物や名所などを調べることがあるでしょう。当時の人々も同じで、そのため写真のような旅行ガイドや絵図が出版されたのです。「中仙道善光寺御宿附」には、中津川宿が載っていて田丸屋と扇屋の2つの旅籠が紹介してあります。また、「大日本早引細見繪図」の全国版の絵図にも中津川宿と、その少し南には恵那山が描かれています。
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更新日:2021年04月01日