【資料紹介】徳川秀忠から遠山友政への書状

更新日:2021年05月28日

【資料紹介】徳川秀忠から遠山友政への書状

2代将軍となる徳川秀忠の、遠山久兵衛(きゅうべい)宛ての書状が、苗木遠山史料館に2通あります。

1通は下の写真の書状です。

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勝栗一箱 到来書入候 猶大久保相模守 可申候也

九月十六日 秀忠花押

遠山久兵衛殿 「勝栗をいただいた。大久保相模守(さがみのかみ)が扱った。」という受取状が、徳川秀忠から遠山久兵衛へ出されています。

苗木遠山史料館には別に、「帷子(かたびら)」をいただいた受取状もあります。

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帷子三、到来 悃志之至 喜入候尚大久保 相模守可申候也

七月廿一日 秀忠花押

遠山久兵衛殿 遠山久兵衛は云うまでもなく、苗木藩初代大名遠山友政(1556~1619)です。(久兵衛は通称)

秀忠は2代将軍徳川秀忠(1579~1632)、大久保相模守は大久保忠隣(ただちか)(1553~1628)です。大久保忠隣は早くは徳川家康の忠臣、のち秀忠の家老、さらには老中となります。

勝栗は栗を干して殻と渋皮を剥(は)いだもの。「勝ち」に通じる縁起物で、戦時に贈られることがあったようです。

書状はどちらも年号が書かれていませんが、「九月十六日」はことによると、1600(慶長5)年の9月かもしれません。

関ヶ原合戦の直前、家康は東海道を西進し、秀忠は東山道を南下します。ただ途中、大久保相模守等の助言で上田城の真田昌幸父子を攻め、それに難渋し、進軍が大きく遅れました。真田攻めを諦め再進軍、9月16日に妻籠(つまご)まで来ました。

遠山友政は、家康の命で山村・千村氏と共に、木曽・東濃へいち早く進攻して、秀忠軍の到着を待ちました。9月16日に勝栗が届けられたのは、妻籠であった可能性があるかも知れません。もっとも、秀忠は妻籠で、前日の関ヶ原合戦の勝利の報を聞き、真っ青になっていたはずです。

「寛永諸家系図伝」には「(友政は)この時米・大豆・御馬の沓(くつ)など旅料を(秀忠に)献じ、同国大井に至りて御馬一疋(ひき)を献ず」とあり、勝栗とは記されていませんが、あり得るかも知れません。

遠山友政宛書状は古く、花押は秀忠なので注目しました。(ち) 2018年1月16日掲載(最終更新 : 2018年1月16日) 中津川市苗木遠山史料館 〒508-0101 岐阜県中津川市苗木2897番地の2

電話 0573-66-8181 ファクス 0573-66-9290

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