【資料紹介】 「風吹門」名の由来に一考

更新日:2022年05月17日

「風吹門」名の由来に一考

苗木城三ノ丸広場の入口に「風吹門」がありますが、なぜ風吹門というか記載した資料はありません。天正10(1582)年織田信長が本能寺の変で憤死して、天下の形勢は大きく動き、翌春、秀吉配下の森が東濃を進攻し、5月に最後の苗木城に至りました。「高森根元記」には「友忠父子は苗木の城を固めた。森長可は大勢で取り囲むが、その時風雨が激しく霞が城を蔵した。これで寄せ手は城を見定めることが出来なかった。城兵は堅固に守り切ったので、武蔵守(長可)は勝利を得ずして引き下がった」とあります。

一説にこれは5月20日とあり、太陽暦では7月9日に当たります。梅雨の終わり、7月にはしばしば豪雨があり、その風雨が苗木城を守ったというのです。岩村城は「霧ヶ城」、苗木城が「霞ヶ城」と云われますが、霧が秋から冬に見られるのに対し、霞は春から夏の気象です。神仏が風雨で城を救ったのでしょうか。結局は、戦いのあと、秋になり、秀吉が攻めてくるという風評に、友忠・友政父子はやむなく城を去り、浜松の家康を頼ったと云われています。

江戸時代には、神仏が霞で苗木城を守ったという伝承を大切にし、苗木藩の人々は苗木城を「霞ヶ城」と呼びました。明治に名を残す可児は「霞城」と号した書軸を残し、画人の安藤栄年も「霞ヶ城真景」を描いています。(ともに苗木遠山史料館に展示)
さらに神仏が風雨を起こしたという話から、木曽川から登る龍が風雨を起こしたという別の伝承に広がり、雨風で赤壁になったという「赤壁城」伝説が生まれました。

巨岩に石垣を重ねて築かれた苗木城では21の門が強い壁となり城を守っていますが、そのの門を風吹門と呼ぶのは、神仏のを祈願するからではないでしょうか。

苗木城は明治4(1871)年に解体されましたが、現在「風吹門」(江戸時代の実物)は大泉寺(中津川市北野町)から里帰りし、館内に展示されています。

中津川市苗木遠山史料館

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