【資料紹介】 二つの「流鏑馬図」を比べる

更新日:2021年10月24日

 
   苗木遠山史料館には、文政9(1826)年8月に並松馬場で行われた「流鏑馬(やぶさめ)図」(霞上(かすかみ)景山画 個人蔵)が展示されていますが、このほどある資料館から、「流鏑馬図を入手したが、遠山 (とも)寿(ひさ)秘蔵と木箱の蓋裏に記入されている」と問い合わせがありました。そこには「元文三年二月九日 竹千代君御誕生御祝儀により高田馬場で神事興行 射手(以下16名列記) 」とあります。文化4(1807)年に騎射(うまうち)のため、馬術高家の小笠原家に入門した11代藩主遠山友寿が翌5年に師範の小笠原家から拝借して流鏑馬図を模写したものと判りました。原画(鈴木長温画)は小笠原家が高田馬場で公式に行った最初の流鏑馬を描いたもので、いわば小笠原流の作法を図式化したもののように見えます。88年後に催された苗木の「流鏑馬図」と比較すると、射手と馬の姿の多くが同形であることが分かります。ただし、顔も服装も馬も外見は異なります。動くものを描くのは難しいため、苗木の流鏑馬を描いた霞上は、現場でイメージを描きながら、実際には小笠原流作法の動く基本図を土台にして、苗木の人物と馬をそこに当てはめたのではないかと推察されます。こうした画法が認められていたのでしょう。(身びいきではありますが、射手の動きと表情は霞上の方が緊迫感があり、味があるように感じられます。)

  なお、 友寿秘蔵の画(軸装 10m)が、流出するとは考えにくく、苗木の流鏑馬開催の半年後、文政10(1827)年4月に 友寿の長女が尾張の下条家に嫁いだこと、その直前に流鏑馬の図が苗木で出来たことを考え合わせると、秘蔵だった原図を嫁入り道具に加えたのではないかと推察できます。流鏑馬は祈願や祝儀の神事として開催されました。元文3(1738)年には、将軍吉宗の嫡男家治誕生の祝儀に、文政9年には苗木で藩主 友寿の厄払いの祈願として催しました。嫁入り道具には長女の結婚生活安寧(あんねい)への祈願が込められていたのではないでしょうか。

 

中津川市苗木遠山史料館

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