⦅中津川宿24⦆皇女和宮と大奥上臈御年寄花園

更新日:2022年04月19日

和宮 親子内親王

皇女和宮『幕末・明治・大正回顧八十年史』より

皇女和宮 『幕末・明治・大正回顧八十年史』 1933 ~1934

東洋文化協會  (Wikipediaより)

和宮(かずのみや)親子(ちかこ)内親王(ないしんのう)(1846~1877)は、仁孝天皇の第8皇女であり、14代将軍 徳川家茂の正室。

和宮は誕生時に賜わった幼名で、親子は文久元(1861)年の内親王宣下に際して賜わった諱、家茂の死後には落飾し、静寛院宮と名乗りました。

和宮は本来、当時の天皇であった孝明天皇の命により、有栖川(ありすがわの)宮熾(みやたる)(ひと)親王(しんのう)と婚約していました。

しかし、朝廷と幕府の関係が悪化していたことから、和宮を江戸城へ降嫁させることにより、親和をはかろうとしました。

和宮はこの婚姻を拒否したものの、朝廷は譲らず、不本意な中で将軍 家茂への輿入れが決まってしまいました。

しかし、家茂は温厚で思慮深い若者で、和宮の他には側室をもつことがなかったといいます。しだいに和宮も心を許し、仲の良い結婚生活を送ったようです。

しかしその生活は短く、和宮が降嫁したわずか4年後、家茂は20歳という若さで亡くなってしまいました。

家茂の死後、姑である天璋院( 篤姫)と力を合わせ、大政奉還の際の無血開城に力を尽くしました。

和宮はその後、わずか32歳という若さでこの世を去りますが、「家茂のそばに葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺に葬られました。

皇女和宮の降嫁

皇女和宮の通行経路と日程1

文久元(1861)年、孝明天皇の妹である和宮内親王が第14代将軍徳川家茂のところへ降嫁しました。

出発は昔の暦でいえば10月20日京都を出発されました。今の11月下旬から12月上旬です。

今のように暖冬ではありませんし、暖房などありません。寒い、寒いときでした。

だんだんと京都から離れていきます。強い決意で出発したのですが、心細くなっていきます。満15歳ですから今の中学3年生です。

後ろをふりむきながら、

住み慣れし 都路出でて 今日いく日 急ぐもつらき 東路の旅

こんな歌も詠まれながら中津川宿に着かれたのは10月29日でした。

中津川宿泊と大行列

皇女和宮 中津川宿泊と大行列

中津川宿へは10月29日午後4時頃到着しました。夜中には雨がひどくなり、翌朝の出発から昼まで続きました。

この皇女和宮の大行列は、付き従うお供の者たち、江戸から迎えに来られた人、朝廷から付き従う人、前後左右を守りながら警護していく武士たち、荷物を運んでいく人たちなど全部あわせると、約2万人以上ともいわれ、長さ77kmにもおよんだといわれています。

だから、その行列が通り過ぎるまでに4日間もかかったといわれています。

島崎藤村『夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれています。

和宮通行記録 中津川宿 落合宿

和宮通行記録表紙

和宮通行記録表紙 個人蔵

上臈御年寄 花園の中津川宿泊

皇女和宮を京都まで迎え出向き、共に下向した大奥上臈(じょうろう)御年寄(おとしより)花園は、中津川宿新町の十八屋やまはん間半兵衛秀矩家に宿泊しました。

中山道経由で無事江戸城入りした孝明天皇の妹和宮は文久2(1862)年2月11日、第14代将軍徳川家茂と結婚します。

5月に入ると、花園やその付き女中たちは、中津川宿で一泊お世話になった十八屋やまはん間家へ、相次いで書状や返礼の品等を送ります。

花園からの返礼品

写真は、その返礼として送られてきた、人形、筥迫などです。

これらの返礼品は当館に展示しております。(令和3年4月現在)

花園下賜筥迫 個人蔵

花園下賜人形 個人蔵

喜の筆花園より送状

喜の筆 花園より送状 個人蔵

手文庫及び送り状

手文庫及び送状 個人蔵

十八屋やまはん間家の女性たち

間たに

間秀矩の妻で、出身は中津川の大津屋菅井家。

文久元(1861)年10月29日、皇女和宮下向の際、ここ中津川宿の本陣にて宿泊しました。

同行した大奥上臈(じょうろう)御年寄(おとしより)の花園は、酒造業で立派な屋敷の間秀矩宅に宿泊しました。

大奥御女中衆一行をもてなしたのは、たにと娘のみつ(数えで14歳)でした。

翌年、女中衆から相次いでそのもてなしぶりに感激して、礼状(全8通)や下賜の品々が、たに・みつ宛に送られて来ました。

それらの一部を展示してあります。

最初に届いた礼状には、「本当に長い旅でしたが皆様方ほど親切におもてなし下さいました所はありません。みんな集まってはその時の話ばかりです。」(文久2年5月3日付おたにあて 差出人は喜の)と書かれていました。

秀矩・たに夫婦はその後、なすのからし漬け一桶を大奥の花園宛に送りました。

 

間みつ

間秀矩の娘で、数え14歳の時に母親とともに左記大奥の花園一行をもてなします。

満津という女中から秀矩・御家内宛の書状には、「御娘子、よふはたらきまいらせ候て、山里ニハめつらしきめつらしきたち居と申、御勇しく、江戸・京にもはつかしく、御近くなら御召つれ被遊たくと御噂被遊候、よき御子持に御座候ト、いまに申くらし候」とあります。

また、みつは文久2(1862)年2月23日から翌月20日までの約1ヶ月間、父秀矩とともに伊勢参宮の長旅に出ました。

さらに、翌年2月には同じく父秀矩とともに、政局渦巻く京都の旅行に同伴していています。この旅は2ヶ月以上の長旅でもありました。

大奥女中「妻緒・とまや」から「たに・みつ」宛書状

この二人の女中からも、

「昨年、御下向の折には御宿に御當り、色々御深切に成られ下すべく候。(中略)花園様、岡の様、山田様にも(こと)(ほか)殊の外御悦び様にて御噂のみ遊し候」とあり、「御娘子も御縁御さ候て、一度は御本丸へ御上ヶ申し度と存じ居り参らせ候。(しか)し、いかにも遠方の事ゆへ致し方なく、御縁のみ伝えおり参らせ候」と、

娘のみつを近くの娘ならば、ぜひ江戸城の大奥勤めに出させたいものだ、と述べています。

母親のたににとっては、この上ないほめ言葉になったものと思われます。

この書状は当館に展示しております。(令和3年4月現在)

喜の筆 花園よりおたにへの書状

喜の筆花園よりおたにへの書状 個人蔵

折紙とは

古文書の形式を示す用語
奉書紙・檀紙  ・鳥の子紙などを横長に二つに折り、折り目を下にして書く。

表包紙など略した形式で本来は口頭で述べる内容を記したが、しだいに通達・書状に用いられるようになった。

平安後期から始まり江戸時代には形式が定まり、「折紙を頂く」というように、折紙とはその内容の指令そのものをさすようになった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について

大奥女中「妻緒・とまや」から「たに・みつ」宛書状は折紙の形式です。

折紙書状とは

折紙書状をのばしてみました

大奥女中妻緒・とまやからたに・みつ宛書状 折紙のばし

大奥女中「妻緒・とまや」から「たに・みつ」宛書状 書き下し

大奥女中妻緒・とまやからたに・みつ宛書状書き下し

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